19歳の“初期衝動”が“ビジネス”に変わるまで Vol.01
2002年、ファッションブランドを立ち上げるという事のハードルが今現在よりも非常に高かった時代の話。
メディアといえば紙媒体の事を指し、現代のようなSNSなんてまだ存在していなかったので、学生なんかがノリでブランドを始めたところでメディアへの掲載はおろか、セレクトショップへの取り扱いすら決まらないのが当たり前だった。
当時の僕は19歳。
上京して間もない田舎者である。
某ファッション専門学校への入学を理由に地元である長野県を飛び出し、単身赴任中だった父と同居する形で目黒区に住んでいた。
専門学校へ通う理由は自分の夢であった、自分のファッションブランドを立ち上げ、最終的にはそのブランドショップのオープンを実現させる為。
周りの生徒たちも、気持ちの大小はあれどその大半は同じような事を胸に抱いて入学を決めた者が多かった。
僕は競争心が旺盛だったので、入学早々から「俺はブランドがやりたい」だの、授業では「一番になりたい」だの声高々に宣言しており、周りからも“中川はデキるやつ”という雰囲気が漂うぐらい自分の価値を勝手に高めていた。
この時まだ授業が何も始まっていないのにだ。
そして僕はいきなり思いっきり躓く事になる。
余裕で出来ると思って挑んだデッサンの最初の授業でそれは起きた。
まず、講師が真っ白い紙に丸い円を描いていく。
講師は、「はい、このように丸い円をまず描きましょう」
皆、教材として配布されたスケッチブックに大きく円を描く。
皆一瞬でペンを置き、次の指示を待っている。
講師は、「はい、では次に人体を描いていきます」
と言うと、ノートに今度は人体の絵を描いてみせる。
教室には、「簡単過ぎるんだけど」や「全然上手く描けない」と言った声がチラホラ聞こえていた。
講師が一人一人のデッサンを見て回っている。
そして、僕の前で止まると、
「え?どうしたの?」
と言いながら講師はちょっと困ったような顔をしていた。
すると、他の生徒も何があったのかと僕のスケッチブックを覗き込む。
僕のスケッチブックには鏡餅の下の部分でも描いたかのような歪な丸が描かれていた。
“俺はデキるやつ”という漠然とした自信だけで挑んだ結果、実は誰よりもデッサンが出来ないという事実が受け入れらず、僕はデッサンの授業はこの一回しか出ていない。
ちなみに講師の方は放課後残って一緒に練習しようと言ってくれたのだが、それは僕の糞にもならないプライドが邪魔をして受け入れられなかった。
次にソーイング(縫製)の授業があった。
ソーイングに関してはハナから出来る気がしていなかった。
というのも、中学の家庭科の巾着は上手く出来なくて結局母親に手伝ってもらったし、高校の家庭科も上手く出来なくて友達にお金を払って作ってもらっていた。
案の定、僕は最初のスカートを作る授業で、見事にミシン針を3本も折ってみせた。
しかもミシンの糸の通し方も全く覚えられないので、その都度講師や友達に糸を通してもらうというどうしようもないエピソード付きである。
僕はこのソーイングの授業も一回しか出なかった。
ここまで授業でダメダメだった僕は、早々に学校に見切りをつける事になる。
周りからの見え方を何より気にしていたのもあり、“デキないやつ”というレッテルをとにかく恐れていたのを今でも思い出す。
そして、僕はこの専門学校を約1ヶ月で不登校となる。
ここまで、描けない、縫えないと、ファッションデザイナーに必要とされている事の約8割ぐらいを占めそうなスキルを諦めた僕だが、不思議な事にブランドをやるという漠然とした野心だけは持ち続けていた。
その野心を持ち続けられた一つの要因として、学生時代に築いた先輩方との交流があった。
新入生の中でもとにかく野心的だった事もあり、在学中から同級生と遊ぶことよりも上級生と夜遊びに行くことが多かった。
先輩たちの中には「学校なんて意味ないよ」と言う人もいれば、「学校行く時間があったらバイトして金貯めて好きな事やった方が良いよ」なんて言う人もいた。
(どの時代にもそう言う人はいる)
専門学校に絶望していた僕にとって、その先輩たちの言葉は救いそのもので、どっぷり先輩方の意見に影響されるようになっていた。
その先輩たちの中にはブランドを始める人もいて、その界隈で一気に3つのブランドが立ち上がった。
どれもANVIL等の有型のTシャツにプリントしたアイテムからスタートしていたが、当時の僕にはそれがとてもインディペンデントで格好良いものだと感じていた。
先輩たちはそれをクラブイベントで物販のような形で販売したり、友達に手売りしていた。
僕も当然それぞれのブランドのTシャツを購入し、元同級生と会う機会があれば自慢したりしていた。
そして、野心だけはしっかり持ち合わせている僕は、「次は俺の番、ブランド作るぞ!」と息巻いて企画を練り始めるのだが、どうにもこうにも資金が無い。
この段階で、縫えない、描けない、金もないと負の三拍子が揃ってしまった僕は、その当時付き合い始めた彼女に「ブランドやらない?」と声を掛け、別にブランドやりたい欲求なんて持ち合わせていない某女子大に通う彼女とブランドを立ち上げる事になる。
ここまで、専門学校を不登校になってから4ヶ月の出来事である。
この何の取り柄も無いと思われていた、僕の彼女“ノンちゃん”が僕の夢を全て叶えてくれる事になるとはこの時は全く想像もしていなかった。
ノンちゃんとの出会いは、クラブで知り合った女子大生に「誰か女の子紹介してよ〜」みたいなチャラいノリで紹介してもらったのがきっかけで、当時大人気だったネイバーフッドやサイラスが好きな、ストリート系のイケてる女の子だった。
話も合うので意気投合し、初めて会ったその日に付き合って同棲を始めていた。
当時の僕はとにかくチャラくてただの夢追い人だった。
多分、彼女の周りからは詐欺師とか言われていたかもしれない‥
そんなノンちゃんに付き合って早々、「ブランドやらない?とりあえずなんか作ってみようよ」と声を掛け、ノンちゃんも「じゃあ適当にやってみようか」と家の中をゴソゴソと物色し始めた。
ノンちゃんはタンスの肥やしになっていた無地のタンクトップといらない布を軽く縫って組み合わせて一枚のドレープタンクトップを一瞬で完成させた。
それはまるで、「腹減ったから何か作ってよ」と言う僕に、冷蔵庫の余り物でささっと創作料理を作ってしまうような光景だった。
つまりこのドレープタンクトップの原価はゼロ円。
制作時間も数分と超コスパの良いアイテムだ。
ノンちゃん曰く、「買い物してて、もっとここがこうなってたら良いのにな〜って思うから、そういう物を作ってみた」とのこと。
ただの女子大生、ノンちゃんがファッションデザイナーになった瞬間である。
洋服が完成したらブランド名を決めようという事になり、ファッション用語辞典という名前の分厚い辞書を適当にパラパラめくって3つの単語を選んだ。
banal(平凡な)
chic(上質な)
bizarre(奇抜)
この3つの単語を並べたbanal chic bizarre(バナルシックビザール)というはちゃめちゃなブランド名。
ノンちゃんの洋服を作る理由を汲む形で、“シンプルの中にある奇抜”というコンセプトにした。
ブランドのネームタグを作るお金も無いので、ノンちゃんのアイデアでホームセンターでハンコを作り、それを世界堂で販売している布用スタンプを使って手押しする形でブランド名を印字した。
それを当時若手ブランドの登竜門と呼ばれていた代官山のGIPSYというショップに営業を掛け、ノンちゃん作成のドレープタンクトップの取り扱いが決まったことでめでたくブランドデビューする事ができた。
このタンクトップが月200枚売る大ヒット商品となり、貧乏だった僕は一気に莫大な資金を手に入れることになる。
そして、ここから僕の出番になっていくのだが、話がいかんせん長すぎるので一旦ここまで。
この段階では今現在、僕が1ヶ月で辞めた某専門学校の講師をやることになるなんて全く想像がつかない。
教育の件も今後発信していけたら。
では。