足るを知る
「モモ」や「スマホ脳」を読むと、スマートフォンに関わらず便利なものはなんと恐るべきものなのだろうと思わされる。
時間の搾取は当然、生気すら搾取しているのではないかと思われるほどに我々は半導体付きの液晶にへばりついている。
テレビも、パソコンも同じだ。ゲームだって。
今は中高生のスマホ所持が問題視されている(少なくとも私の周りでは)が、私が学生の頃はゲームが問題視されていた。
ちょうどゲームボーイアドバンスや、DSなどが台頭してきた時代である。イナズマイレブンやポケットモンスターやモンスターハンターに興じたあの日々が懐かしい。フードコートで友人と朝から晩まで遊んでいたものだ。
スマホはダメで、ゲームはいいの?
ゲームは飽きたらやめられる。というか飽きたら速攻でやめる。
スマホはどうだろうか?
スマホは一体何のために所持をするんだろう。
誰かと繋がるために、所持していないだろうか?
LINEやSNSはその代たる例だ。常に誰かと繋がっていないと心が落ち着かない。でも現実世界での繋がりはそんなにいらない。Instagramで他人の投稿を見て羨ましいと思う。なぜストーリーなどに投稿するのだろう。見てほしいから?
最近はストーリーですら躊躇うようになってしまった。
投稿した先にあるものが何かわからなくなってしまったからだ。
不特定多数(フォロワーは不特定ではないという声もあるだろうが)に見せるための写真や動画、それは一体何が目的なのだろうか。
写真や動画を撮った時点で思い出のはず。なぜSNSにあえて流すのだろう。ムービーでもアルバムでも自分で作っておいておけばいいじゃないか。
なぜ人に自分の幸せを見せるのだろうか。それが相手の幸せとは限らないのに。なぜ不特定多数にその幸せや自慢をばら撒くのだろうか。誰の心にも届いていないのに。
投稿の際に、色々なことを考えてしまう。
誰が見るだろうか。あいつから見てこれは面白いだろうか。センスあること言いたいな。
この時間があまりにも虚しく感じてしまってからは、ストーリーに投稿ができなくなってしまった。
だってストーリーの投稿を考えてる間に五感で人生を楽しめるじゃないか。
SNSは欲の権化である。自分が不幸にならないために投稿を繰り返す。ストレス発散にもなるだろうが、お手軽すぎるのも問題だ。
美味しいご飯を食べて、すでに幸せなはずだ。なぜSNS にその幸せを分けるような行為をするのか。もうすでに幸せで満たされているのに、なぜそれを表出するのか。そういったことを考えてしまう。
もう少しだけでいいからその瞬間を味わおう。と。
そして、私は楽しい時にはスマホが手元にはない。意識が抜けている。写真を撮ろうと意識しないと私は写真が撮れない。「楽しい」=「スマホで撮る」の意識がないのだろう。
noteの運用 〜SNSとの向き合い方〜
noteの運用も、個人ブログの運用も考えなければならない。
なぜ公開するのだろうか。明確な目標はあるのか。
個人ブログも実はやめてしまった。アウトプットの場としては優秀だったのだが、アウトプット(要約)が目的になってしまい、知識として身についた気がしなかった。
読み終えることがゴールで、記事を書くことに夢中になっていた。週一回投稿というノルマも良くなかった。
本というのはそういった乱暴な読み方をするべきじゃない。心を落ち着けて、眠くなって、夢現の中で読み進めていくものが本だ。
内容理解も大切だが、今の自分に必要なのは本による休息だ。
SNSを日記代わりにしている人もいるだろう。思い出を手軽に残せるのだから有効に使えていれば素敵なアプリになる。
だが、私はそうではない。
写真も文章も考えてしまう。そこには「見られている」という気持ちがどうしても働いてしまう。そういう考えが入り込んでしまった投稿は、果たして日記の意味を成し得るのだろうか。
歪んでしまっているかもしれないが、日記にするなら他者に見せる必要はない。自己と向き合うには、常に他者の目があってはいけない。
承認欲求を満たすために利用したとしても、それは渇いた欲求だ。潤うことのない欲求だ。
なぜなら…
魅力的な投稿はこの世に溢れていて、それを超えて1番になることなんてできないから。
1番にならなくても、欲求を満たしても、次々と他の投稿が羨ましくなる。他のみんなが羨ましくなる。自分も真似したいとループが続いていく。
SNSに疲れた大人を、若者は嘲笑うだろう。
しかし私は言いたい。笑っている場合ではないぞと。
もっと世界にからだを向けて生きてほしい。友達と遊びたかったら電話番号を聞いて家から電話をすればいい。
話題についていけなくなるという心配も、あまりにも浅はかだ。SNSがなくても友達はできる。
本当に、あなたにとってSNSは必要不可欠なのだろうか?もう一度問い直してみよう。
私は、禅の修行体験をしたことがある。
その時は3泊4日でスマホは極力使わないというルールがあった。
その話を中学生にした時、スマホが使えないのが1番きついとほとんどの子が言っていた。衝撃的だった。
これをスマホ依存と言わず何と言おうか。
SNSの恐ろしさ、スマホ依存の恐ろしさは、我々の「視覚」優位の生き方にも問題がある。
それらに関しては、別の機会に書く。
以下の資料から、我々は視覚に支配されていると私は感じた。
半導体は我々の脆弱性につけ込み、自然は我々と脆弱性を向き合わせる。
私の現在のホットキーワードは、「自然」だ。
今、自然に触れる機会が減り過ぎている。生活をスマートにすることで時間を有効活用しているといえるが、そのスマートさによって短縮された時間は何に充てられる?いくら効率良くスマートに過ごしても豊かな世界は見えてこない。短縮された先に待つ時間は、更なる短縮を求められる世界だ。
だからこそ、スマートさからは程遠く、かつ泥臭くて厳しい「自然」に注目している。
半導体付きの液晶画面は我々を脆くするが、自然は我々を強くする。心身ともに。
楽しければいいじゃないかと、そういった主張があると思う。
突き詰めて考えた故の「楽しさ」なのか、
スマホの楽しさに踊らされた傀儡的な「楽しさ」なのか。
この二つの「楽しさ」にはとてつもない大きな差がある。
思考を放棄してスマホに従属するだけでは、豊かさは育まれないのではないだろうか。
今、「対話」が重要視されている世界に必要なのは人とのリアルでのつながりであろう。
考えること、学び続けること、今までの思考を捨てて学び直す(アンラーニングする)こと…。
稚拙な方法でしか手繰り寄せることができないが、苦しみながらも納得できる自己を形成していくことができるのではないだろうか。
まとめ
スマホを一旦手放してみよう。ネットでの繋がりより現実での呼吸を大切にしよう。スマートさを捨てて泥臭く生きてみよう。もちろん私もその途中だ。なかなか半導体の誘惑に勝てずにいるけれども、視覚だけでなく五感で味わう人生を過ごしたいのだ。
なぜnoteは投稿するのかというと、noteは自分にとってアウトプットの場であると思っているからだ。積み上がっていく感覚が、自分の思考が研ぎ澄まされていくような気がするからだ。
そして、noteを始めたきっかけは「同じ轍を踏ませない」ためだからだ。
誰かの助けになる可能性が少しでもあるなら、誰かの幸せに少しでも繋がるなら。
正直、いいね機能はなくしてほしい。無駄な承認欲求の栄養にしかならない。そして自分がそういうのにまだ弱いこともわかっている。
意識の高さとか、そういうことではない。