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落葉舞う季節の約束
霜が降りた朝、諏訪湖から立ち上る靄が、いつもより深く見えた。
美月は図書委員室の窓から、落ち葉が舞い散る校庭を眺めていた。京都の大学案内を机の引き出しに隠しながら、ため息をつく。今年の秋は、例年より早く冬の気配を感じる。朝靄の向こうで、一人の走者が風を切る音が聞こえた。
佐倉結衣——。陸上部のエースは、今朝も最後の一周を走っていた。夏の終わりから、彼女の走りは変わっていた。以前は前だけを見つめて走っていた結衣が、時折振り返るようになった。まるで、誰かを待つように。
結衣は颯太に想いを伝えた日から、毎朝、いつもより一周多く走るようになった。「想いが届かないのは、私の走りがまだ足りないから」と、彼女は美月に打ち明けたことがあった。その言葉に、美月は胸が締め付けられる思いがした。
「おはよう、藤川さん」
振り向くと、結衣が立っていた。陸上部のジャージから汗が滴り、頬は紅葉のように赤く染まっている。でも、その目には普段見たことのない輝きがあった。
「結衣ちゃん...」
「私ね、今日で最後なの。この三ヶ月、毎朝走りながら考えてた」
結衣は窓の外を見つめる。朝靄の中、彼女が走ってきたトラックが朱に染まっていく。
「走るって、不思議なの。前だけを見て走れば、きっと誰よりも速く走れる。でも、大切な人のことを想いながら走ると、時々振り返っちゃう。スピードは落ちるのに、なぜかその方が自分らしい走りになるの」
美月は黙って聞いていた。結衣の言葉の一つ一つが、重みを持って響いてくる。
「藤川さんも、いつも誰かを待ってるでしょう? 私には分かるの。この教室の窓から、颯太くんを探す藤川さんの目が」
机の上の封筒が、朝日に照らされて光る。京都の大学案内が、僅かに覗いていた。
「ねぇ、藤川さん。私ね、今日、走るの。最後の全力の走り。颯太くんに見てもらうの」
結衣の声が震えていた。それは緊張というより、長い間温めてきた決意が形になる瞬間の高揚だった。
「結衣ちゃん...本当は、私...」
その時、廊下に駆け込む足音が響いた。
「美月!」
颯太の声。美月の心臓が大きく跳ねる。彼は息を切らせ、図書委員室の入り口に立っていた。バスケ部の練習着は汗で濡れ、普段の爽やかな表情は苦悩に満ちていた。
「拓海から聞いた。お前...京都に行くのか?」
三人の間に、重い沈黙が落ちる。
「私——」
「走るわ」
結衣が遮るように立ち上がった。
「私の走りを、最後に見て。颯太くん」
一瞬の躊躇いの後、結衣は走り出した。それは今までの彼女とは違う走りだった。トラックを目指すのではなく、まっすぐに校庭へ。まるで、この三ヶ月の想いそのものが走り出したかのように。
「待って!」
美月の声が、図書室に響く。颯太は驚いて振り返る。今まで見たことのない、感情的な美月の姿に。
「私だって...私だって言いたいことがある」
震える声で、美月は胸の内を絞り出すように話し始めた。
「京都に行きたい。でも、それは颯太との距離が離れることを選ぶってこと。だから言えなかった。でも、結衣ちゃんの走りを見てて気づいたの。前だけを見つめて走ることも、時々振り返ることも、きっと両方大切なんだって」
美月の目から、涙が溢れ出る。颯太は黙って、その言葉を受け止めていた。
窓の外では、結衣が走り続けている。彼女は時々振り返りながら、それでも前に進んでいく。その姿に、颯太の目が釘付けになる。
「俺は...」
颯太の声が、かすかに震えていた。
「俺は、この夏からずっと考えてた。結衣の一生懸命な気持ちも、美月との長い時間も、全部大切だって。でも、選べなかった。選ぶことが、誰かを傷つけることになるから」
朝靄が晴れていく。諏訪湖の面が、朝日に輝き始める。
「でも、結衣の走りを見てて分かった。前に進むことと、大切なものを守ることは、両立できるんだって」
颯太は窓を開け、校庭に向かって声を張り上げた。
「結衣!」
走りながら振り返る結衣。
「お前の走り方、かっこよかった! でも、俺の答えは決まってる。美月を選ぶ。距離が離れても、俺たちの絆は変わらない。そう信じられる勇気を、お前の走りから、もらったんだ」
結衣は走るのを止め、ゆっくりと振り返った。彼女の目に涙が光っていたが、その表情は晴れやかだった。
「やっと、言ってくれた」
結衣は微笑んで、もう一度走り出す。今度は、自分だけの新しい道に向かうように。
「美月」
颯太は、震える声で続けた。
「京都まで、毎週でも会いに行く。それくらいの覚悟はある。君の夢も、俺たちの関係も、どっちも大切にしたいんだ」
朝日が三人を包み込む。靄は完全に晴れ、澄んだ秋の空が広がっていた。
校庭では紅葉が舞い落ちていた。それは、夏の想いに終止符を打つと同時に、新しい季節の始まりを告げているようだった。走り続ける結衣、涙を流す美月、そして真っ直ぐな眼差しの颯太——三人の想いが、朝日に照らされて輝いていた。
結衣の足音が遠ざかっていく。でもそれは、終わりの音ではなく、それぞれの新しい物語の始まりを告げる音だった。諏訪の秋が、その瞬間を静かに見守っていた。
全ては、一人の少女の走りから始まり、そして新たな道へと続いていく。落葉が舞う季節に、三人の心に刻まれた小さな奇跡。それは、前を向いて走りながらも、時に振り返ることの大切さを教えてくれた物語だった。