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#98 他者といる技法

「人間は考える葦である」とはよく言ったもので、ヒトは社会的な生物種である。
一人で生きていると思っても、その輪郭は他者によって定義づけられ、そこから逆算され、「私」が定義づけられていると思っている。

私の定義は「他の誰でもないもの」と思っている。

そんな中、本書を読み自分と他者との関わり。そもそも他者とは。
他者といるとはどういうことか、学びがあったなと思う。

正直かなり難しかったので、読み直したい。
個人的に印象的だったパートを主観たっぷりで記載する。

外国人という他者に対する反応

筆者が過去の「外国人」に関する記事をまとめる中で以下のような分析をしていた。

「ポジティブとネガティブ」「主体」と「客体」を軸に4象限に分ける。
その時「コワイ」は「主体×ネガティブ」
「キタナイ」は「客体×ネガティブ」
「カワイソウ」は「客体×ポジティブ」となる。
「主体×ポジティブ」に位置する言葉は出てこなかった。
※客体は被害者、主体は加害者のようなニュアンス

他者といる技法 / 奥村隆

人は自分の枠組みにない「何か」と対峙した時にこうなるんだなと思った。

これは外国人に限ったことではなくて、
一昔前の、社会進出する女性、LGBTQ、などなどいろんなものに当てはまる。
(虎に翼を思い出した。)

その「何か」に対し、主体性を持たせなおかつポジティブに解釈することは
きっと私たちにとって、いわゆるイニシアチブを取られる状態になるんだと思う。

それを感覚的に拒否してしまう。

すごく理解できる。

自己を保つために、この事象が起こることは理解しつつ、
それが起こるホモサピエンスにおける「多様性」とはというのを考えたい。

多様性の社会における、「主体」とはどうなるのか。
マジョリティという言葉がNGワードのようになっていく社会において
二項対立で考えるのが得意な人類はどのフレームワークで解釈するのか。

個人的には、だからこそ「価値観」「死生観」のような
身体的特徴や、趣味嗜好、そのレベルを一段超えたまとまりに収束すべきではないかと思っている。

理解の過剰という問題

もっと理解してほしいという話は聞くけれど
これ以上理解したくないという「理解の過剰」に対するストレスや言及は聞いたことがない。

筆者は以下のように記載している。

理解をめぐる二つの異なる基準がある。一つは「完全な理解」という原理的な基準である。もう一つはそれよりも理解が「過小」でも「過剰」でも苦しみを感じる、ある実践的な基準「適切な理解」である。
この二つの基準は全く異なる。

他者といる技法 / 奥村隆

どういうことだろうか。
私の解釈も含め、もう少し記載する。

差別する人がいる、その人を「完全に」理解するとする。
そうすると、その人が差別する理由、根源をわかってしまう。
そして、その人に差別のことを指摘した時に、その人が反抗し、「私」に対し差別を行うであろうことも「わかって」しまう。
果たして、あなたが「完全な理解」ができる状態の時に、「差別する人」に対しどのような働きかけができるだろうか。

おそらく、何もできない。
少なくとも私は。

本書にもあるが、だからこそ「わからない」ことを許容することが大事なのだと思う。外国人への反応で記載したが、かといってわからない対象としてしまうと、免疫反応のような動きが出てしまうので
レイヤーを上げて、わからない部分があっても「同じ」であると解釈する必要もあると思う。

共通の趣味なのか、好きな何かなのか。
もしかすると許せない何かなのか。
その多重層的な「価値観」が重なることで、他者を「理解する」としていいのではないかと思う。

私が思う「他者といる技法」

私が思う他者といる上で大事な点は、
価値観の一致を探ること、だと思う。

自分のことを棚に上げるが、そのために、価値観を表現すること。
私は何が好きで、何が嫌いで、どんな生き方をしたいのかを語ること。
それが大事だと思う。

そのために、それを許容する社会がもっと必要だと思う。
多様性という言葉が世の中で言われているが、一方で多様性の中の何かを受け入れられないということが起こっていると思う。

私も、実際、ウッとなる時はある。
そんなものが罷り通るのか、と思ってしまうこともある。

それが、「価値観」の表現を止めてしまっているのではないかとも思う。

まずは「好きなものを好きと言える」それを受け入れることのできる社会
それを実現するための、心の余裕とそれ持つために自分らしく生きられている社会
それが大事だと思う。

一方で
「表現すること」と「聞くこと」はできている
か自分に問わなければならない。

それがファーストステップだと思う。



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