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【『パンと牢獄』連載⑥】  生まれ変わった妻と再会したおじいさん

『パンと牢獄 チベット政治犯ドゥンドゥップと妻の亡命ノート』の著者、小川真利枝さんが、ご自身が体験したチベットにまつわるあれこれを語る連載の6回め。チベットでは、多くのひとが「輪廻転生」を信じています。あなたは、このお話を信じますか?

突然、愛する妻を失った。
夫である彼は悲しみに暮れたものの、チベット仏教の転生を信じ、毎日毎日お祈りをした。
どうか、妻の生まれ変わりが幸せな人生をおくれますようにと。
ある日、彼は夢を見た。
それは、ダラムサラの中心街のバススタンドに服を身につけていない妻がぽつねんと立っている夢だった。
左腕に赤い痣をつけて。
目を覚ました彼は、夢と同じバススタンドに駆けつける。
すると、妻が立っていた場所にお腹の大きい女性が座っていた。
話しかけると、来月出産予定という。
1ヶ月後、その女性は男の子を産んだ。
男の子の左腕には、赤い痣があった。
 

 チベット仏教の死生観を語るとき、わたしのチベット語の先生がよく話してくれた逸話です。チベットでは、人間は亡くなってから49日で生まれ変わると信じられています。そのため、死を嘆くのではなく、そのひとの来世の幸せを願うために祈ります。そして祈りが届くとき、その亡きひとと再び会えるのだと。そういう意味で、チベットのひとは死を深く長く悲しまないのだそうです。ずっと悲しんでいると、死者が後ろ髪を引かれ、よき転生にならないともいわれます。お墓もたてません。

  チベットの多くのひとが、輪廻転生を信じています。だからこそ、生きとし生けるものを慈しみます。なぜなら、このちっぽけな虫が前世の母親かもしれないし、来世の母親になるかもしれないからです。すると、忌まわしき夏の蚊やゴキブリでさえ、殺すことが憚られるようになります。きっとこうして慈悲の心が育まれるのかもしれません。

 インドのダラムサラで暮らすようになってから、わたしは朝ぼらけに巡礼に行くようになりました。ダラムサラの朝は幻想的な世界が広がります。夜明けとともに鳥たちがさえずり、日の出とともに巡礼者たちが町の中心にある寺院に向かうからです。耳を澄ますと、それぞれ小さな声でお経を唱えていて、アルトだったりソプラノだったり心地いいハーモニーを奏でています。このときばかりは、おしゃべり好きのチベットのひとも静かに内省的な時間を過ごします。

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 寺院内は、両手、両膝、額を地面につけてひれ伏す「五体投地」という礼拝をするひとであふれます。ゆっくりと祈るひともいれば、まるで大雨が降ったときの鹿おどしのように超高速で五体投地をするひとなんかもいます。それぞれ好きな場所に五体投地専用の板を敷いて、座布団を敷いて好きなだけ祈るのです。ダラムサラに暮らしはじめてまもなく、わたしも興味本位で、毎朝100回の五体投地に挑戦しました。開始そうそう強烈な筋肉痛に見舞われましたが、1ヶ月ほど経つと筋肉痛もおさまり、代わりと言ってはなんですが、バキバキに腹筋が割れました。

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 この五体投地をはじめたとき、ひとりのおじいさんに出会いました。冷やかしのように五体投地に挑戦する外国人のわたしに優しく声をかけ、丁寧に五体投地の方法を教えてくれたのです。「ただカタチだけやってもダメだ。生きとし生けるものの幸せを願うんだよ」と、筋トレのように五体投地をするわたしをたしなめてくれたりもしました。83歳、ノルギャという名前でした。ノルギャおじいさんは、毎朝、決まった場所で五体投地をくりかえしています。わたしが寺院へ行くよりも早くから、そしてわたしが帰ってからも黙々と。1日300回も五体投地をしているといいます。1日100回でヘロヘロになっているわたしのなんと甘いこと。きっとノルギャおじいさんは、腹筋がバキバキに違いありません。なにより、83歳にしてそれだけの体力があること、そしてその信仰心に圧倒されました。

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 ノルギャおじいさんの話をチベット語の先生に話したときのこと。先生が嬉しそうに微笑みました。「そのおじいさんが、わたしがいつも話す“生まれ変わった妻と出会ったおじいさん”よ」と。そうか、なるほど。あのノルギャおじいさんの敬虔な姿や滲み出る優しさは、この体験からきているのか。妙に合点したのです。

 妻と再会したノルギャおじいさんの話には、続きがあります。左腕に赤い痣があった男の子が物心ついてから、ノルギャさんは彼を自宅に招待したのだそうです。すると、ベッドの敷き布団の下から靴下を取り出し、「この靴下、ぼくのだよ」と言ったというのです。その靴下は、まぎれもなくノルギャさんの妻のものだったそう。

 輪廻転生を信じるか、信じないか。科学的な根拠なんてありません。ただ、信じることで、自分の生きる道にほんの少し光が差すことがあるのかもしれない。そして、知らない誰かにも優しくなれる。そんなふうに思います。きっと現世で妻と死別したノルギャさんの命は、赤い痣の男の子と出会ったことで、もういちど息を吹き返したと思うのです。男の子は遠い地に引っ越してしまったそうなのですが、ノルギャさんと男の子の交流は、いまも細々と続いているそうです。

 次回は、このノルギャさんの物語の続きです。じつは、かつてチベットのゲリラ部隊に所属し、1959年にインドに亡命してきたという過去をもつひとでした。

●著者プロフィール
小川真利枝(おがわ・まりえ) 
ドキュメンタリー作家。1983年フィリピン生まれ。千葉県で育つ。早稲田大学教育学部卒業。2007年テレビ番組制作会社に入社、2009年同退社、フリーのディレクターに。ラジオドキュメンタリー『原爆の惨禍を生き抜いて』(2017)(文化庁芸術祭出品、放送文化基金賞奨励賞)、ドキュメンタリー映画『ラモツォの亡命ノート』(2017)などを制作。 『パンと牢獄 チベット政治犯ドゥンドゥップと妻の亡命ノート』が初めての著作。

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