【前編】引退競走馬支援ワールドの最前線に潜入?! 世界の競馬開催国メンバーが集う国際フォーラムに行ってきた
はじめに(担当編集より)
昨年12月の刊行後から売れ続け、この夏に2度目の重版がかかった片野ゆかさんの最新作『セカンドキャリア 引退競走馬をめぐる旅』。競走馬の引退後の姿に迫った渾身のノンフィクションが、この度「第2回 書店員が選ぶノンフィクション大賞」にノミネートされました。
詳細につきましては、以下のサイトをご覧ください。10月9日までに、丸善ジュンク堂書店グループの店舗で『セカンドキャリア』を含めたノミネート作をご購入いただくと、hontoポイントが10倍付与されるとのことですので、この機会にぜひお近くの店舗へ足を運んではいかがでしょうか。いま話題のノンフィクション作品を知ることができる、年に一度のチャンスです。
さて、本記事は「書店員が選ぶノンフィクション大賞」のノミネートを記念して片野さんが新たに書き下ろした、引退競走馬支援の最前線を伝える充実のルポルタージュです。
この夏、札幌競馬場で行われた引退競走馬の余生支援について考える国際フォーラム。そこに片野さんが好奇心全開で潜入した様子を、前後編の2回に分けてお送りいたします。ぜひ最後までお楽しみください。
引退競走馬支援ワールドの最前線に潜入‼
会場の入り口で迎えてくれたのは、凛とした立ち姿が美しいサラブレッドだった。ツヤツヤの茶褐色の体毛にフンワリと整えられた鬣(たてがみ)、表情はとてもリラックスしていて、大きな瞳からは穏やかな輝きが放たれている。圧倒的な存在感の愛らしい大型動物との対面に、いきなりテンションは爆上がりだ。
「撫でてもいいですよ」
スタッフの声に背中を押され、グーの形にした手を馬の鼻先にそっと差し出してみた。これは初対面の馬に挨拶するときの基本マナーで、馬が自分から近づいて手の匂いを嗅いでくれれば「触ってもいいよ」というサインだ。だがさすがは来場者をお迎えする役目を担っている馬だけのことはある、「それ、省略してもいいですから」といわんばかりに目配せしてきた。うわー、これだけでも可愛い! それではお言葉に甘えて……馬の首筋に手の平をそっと押し付けるようにして撫でると、滑らかな手触りがたまらなく心地いい。不特定多数の人にかこまれても動じるどころか、むしろ注目されて嬉しそうな空気を発している。思いきって馬の顔に自分の頬をピタリとつけてみると、体温がジンワリと伝わってきて気づけば顔が完全にニヤけていた。
ここは札幌競馬場。続々と到着する来場者を優しく迎えてくれているのは、ライトオンキューという名の誘導馬だ。彼の主な仕事は、競馬開催のときにレースに出走する競走馬たちをパドックや馬場でリラックスさせながら先導すること。だがこの日、開催されたのは競馬ではなかった。
引退競走馬の余生支援について考える国際フォーラムに参加しませんか──。そんなメールを受け取ったのは、酷暑が続くある日のこと。8月末に札幌で「第40回アジア競馬会議(ARC : Asian Racing Conference)」の開催が予定されていて、その一環としてスケジュール初日の27日に「第8回引退競走馬のアフターケアに関する国際フォーラム(IFAR:International Forum for the Aftercare of Racehorses)」が開かれるというのだ。ARCはオセアニア、アフリカ、中東を含むアジアの競馬開催国の関係者が集う国際会議で、IFARはアメリカやイギリスをはじめとする全世界の競馬開催国が参加するサラブレッドのセカンドキャリアや余生支援を促進するための検討組織だ。いずれも前回は2023年2月にオーストラリアのメルボルンで開催され、今年は日本が開催国になったのだ。
メールの差出人は、今回のフォーラムを主催するJRA(日本中央競馬会)の担当者。馬事部に所属して長らく引退競走馬の余生支援を推進する仕事に携わり、現在はJRA関連組織の「サラブレッド アフターケア&ウェルフェア(TAW:Thoroughbred Aftercare and Welfare)」参与の西尾髙弘さんだ。JRA主催の国際会議に招待されたなどと書くと、私が競馬業界に詳しい熱心な競馬ファンだと思う人もいるかもしれない。しかし、これまでに競馬場を訪れたのは数えるほどで、馬券を買った経験はほぼゼロだ。
競馬経験ゼロの私が
馬ワールドにハマった理由
そんな私が馬の世界に関わるようになったのは、2019年の夏に目にした引退競走馬の現状を伝える新聞記事がきっかけだった。日本では年間約7000頭のサラブレッドが生産される一方で約6000頭が競馬を引退し、その多くは行方不明になっている──その事実に大きな衝撃を受けたのだ。
これまで四半世紀以上、人と動物の共生をテーマにしたノンフィクションを書いてきて、主な取材対象は犬や猫、ウサギ、鳥などペットの動物や動物園で暮らすペンギンやチンパンジー、キリンなどだった。とにかく動物全般が好きで、もちろん馬にも好意は抱いていたが都会でふれあえる場所はほとんどない。唯一と呼べるのが競馬場だが、動物福祉に関わる取材をしていると競馬業界の現状が耳に入ることもある。もともとギャンブルに興味がないこともあり、競馬の世界とは長らく距離を置き続けてきたのだ。
だが競走馬のリアルを伝える数字はインパクト絶大で、とても見逃せるものではなかった。さらにもうひとつ興味をひかれたのは、この情報の発信者が現役の調教師だということだった。JRA栗東トレーニング・センターに所属する調教師(当時)角居勝彦さんは、数々の重賞で勝利して最多賞金獲得調教師賞や優秀技術調教師賞など複数の賞に輝き、2011年ドバイワールドカップで優勝した実績を持つ。そんな競馬業界のレジェンドが「引退競走馬の余生支援が必要」と業界の内側から、はっきりと声をあげていることに驚いた。角居さんは現役調教師として活躍する一方で、2013年に設立した一般財団法人ホースコミュニティ代表理事として、レースで勝てなかった馬たちのセカンドキャリアを支援する活動を続けていた。そのひとつは引退競走馬自身が稼げる新しい仕組みをつくることで、福祉や医療の現場で活躍するセラピーホースの普及活動に力を入れていた。また競走馬がセカンドキャリアを歩むうえで必須である、リトレーニングを円滑に進める仕組みづくりなどを進めていた。
競馬業界では長らく、引退したサラブレッドの問題を「口にしてはいけないこと」として扱ってきた。従来、このような慣習が変化することはとても難しい。だが現役調教師の取り組みを知り、「今、競馬業界は大きく変わろうとしているのかもしれない」という期待感を抱いたのだ。
私は、これまでペット動物の世界や動物園を取材してきて、動物たちの生活の質の向上や動物福祉を推進する経緯や事例を複数見てきたが、物事が大きく変わるのはいずれも〝業界のなかの人〟が声をあげて行動するときだった。その潮流が拡大化して社会を変えるためには、外部組織との連携も不可欠だ。少し調べてみたところ、四半世紀近い活動歴を誇る認定NPO法人引退馬協会をはじめ、引退競走馬支援をイノベーション・ビジネスとして展開する株式会社TCC Japan、養老牧場で暮らすサラブレッドの馬糞堆肥を利用したマッシュルームを生産することで馬の飼育費を賄う専門農家のジオファーム八幡平など、ユニークな民間組織が複数存在していることもわかってきた。
今、この国の引退競走馬支援の世界はどうなっているのか? それを体系的に理解できるように取材すれば、社会が好転する経緯をリアルタイムで記録できるはず──そんな思いから、競馬・乗馬ともに知識も経験もゼロでスタートして4年間、引退競走馬支援の現場に通い続けて執筆したのが2023年12月に刊行した『セカンドキャリア 引退競走馬をめぐる旅』だった。
愛馬にメロメロになりながら
JRA本部に本気度を訊きに行く
取材開始からまもなく、引退競走馬の共同オーナー制度を利用してラッキハンターという馬の馬主になった(拙著表紙の愛らしい馬を見てほしい!)。すると、これまで遥かに遠かった馬の世界が少しだけ身近になった。馬房を訪ねてふれあう時間はもちろん、サポートが必要な子どもたちを対象にしたプログラムを提供するセラピーホースとして活躍する愛馬の姿を目にすると、予想していた以上の多幸感に包まれた。馬と馬を心から愛する人々が集う取材現場は、動物好きの私にとって癒し効果満点といっても大げさではなかったのだ。
しかし、なかには訪問を躊躇するところもあった。それはJRA本部だ。日本は世界で一番馬券が売れている競馬大国で年間売り上げ約3兆円にもなる、というのは取材をしてはじめて知ったことだった。特殊なのはそれだけではなく、競馬の開催を政府所管の組織がおこなっているのは世界でも日本だけで、複数のGⅠレースなど大規模な運営を展開できるのは、JRAに莫大な資金力があるからだ。
それを担ってきたのが、命をかけてレースを走ってきた競走馬たちだ。彼らの余生支援についてJRAが考えるようになったのは、2017年に「引退競走馬に関する検討委員会」を発足させて以来のこと。引退したサラブレッドの乗馬界での活躍を推進するために引退競走馬杯(RRC:Retired Racehorse Cup)を複数開催するほか、養老牧場など引退競走馬の余生に関わる活動組織を対象にした支援金制度も運営している。とはいえ巨大組織の業務全体からすると、その比重は微々たるものだ。2022年当時は公式サイトのインフォメーションも限られていて、この話題に関心のある人々に発見されるのを拒んでいるかのような印象だった。
JRAは、引退競走馬支援に対していどのくらい本気なのか? それが知りたくてアポイントを取ったが、政府所管の巨大組織が情報公開に積極的とは思えない。インタビューをしても〝やってます感〟をアピールする公式発言のみで時間終了となっても不思議ではなかった。そんな不安を抱いて港区新橋のJRA本部を訪ねたとき、取材に応じてくれたのが前出の西尾さんだった。
「プロジェクトを進めるためのお金はあります。しかし今、圧倒的に足りないものがあります!」
インタビュー開始と同時にストレートな発言に驚かされ、懸念が一気に吹き飛んだ。西尾さんは競馬産業の中央組織が抱える事情や悩み、さらにレースを引退したサラブレッドの活躍の場を増やすためのプランについて丁寧に説明してくれた。なにより印象的だったのは〝今、引退競走馬の問題にきちんと対峙しなければ近い将来に競馬開催が危ぶまれる事態になる〟という強い危機感を抱いていることだった。
引退競走馬のセカンドキャリアに不可欠な
リトレーニングで、一番大切なこと
こうした経緯を経て、今回開催されたのが「第8回引退競走馬のアフターケアに関する国際フォーラム(IFAR)」だった。世界各国から来日した競馬関係者が集う会場はとても華やかな雰囲気で、一方、私は馬券の買い方もわからない、ただの馬好きだ。あきらかに場違いで、アウェー感しかない。とはいえ、そもそも競馬関係者の国際会議に出席できる機会など、おそらくこれが最初で最後のチャンス。ならば好奇心全開で歩くに限る。はたして世界の引退競走馬支援の最前線はどうなっているのか?
プログラムは「フィールドトリップ」からスタートした。これは開催国の日本でのサラブレッドの活躍ぶりや調教方法を紹介するものだ。札幌競馬場には、本日のお迎え係として活躍したライトオンキューをはじめ12頭の誘導馬が働いているが、いずれも引退競走馬だ。彼らが第二の馬生を歩むために重要かつ不可欠なのがリトレーニングだ。
「リトレーニングでもっとも難しいのは、ゆっくり歩く、しっかり止まるなど、現役時代と正反対のことを身につけなければならない点です」
解説するのは誘導馬の調教を担当する札幌競馬場・乗馬センターチーフの渡邉伸二さんだ。サラブレッドは、生まれてからこれまで速く走ることだけを求められ、日々トレーニングに励んできた。そんな彼らに「引退したから今日から走るな」といっても、理解するのは不可能だ。
もっとも大切なのは気持ちの切り替えだが、それはレースに勝つために闘争心を磨き続けてきたアスリートが、一般社会に馴染むことにもたとえられる。「かつてはリトレーニングに1年半から2年かかっていた」と渡邉氏は説明した。多くの引退競走馬をセカンドキャリアにつなぐためには、時間的な効率性は不可欠だ。JRAではプログラムの見直しを経て、現在では3か月から6か月ほどで誘導馬としてデビューできるようになったという。
ポイントは人と馬との信頼関係の構築で、その際に有効とされるのがグラウンドワークという方法だ。これは人が馬に乗るのではなく、馬と同じ地面で向き合って意思疎通をはかりながらトレーニングをおこなうものだ。これまでと違う世界にやってきて不安を抱えている馬にとって、ここが安心できる場所でリトレーニング担当者が信頼できる相手だと理解することはとても重要。こうした関係性ができると馬が精神的に落ち着き、本格的なリトレーニングが開始できるという。
「誘導馬がいてくれるから競馬場の運営が成り立つ」「彼らの貢献度ははかりしれない」という言葉からは、馬への愛情やリスペクトが伝わってきた。
誘導馬の仕事は競馬開催日に限らない。札幌競馬場では札幌市内在住の18歳から45歳の乗馬未経験者が対象の「初心者乗馬クラス」と、乗馬未経験の小学5年から中学3年が対象の「乗馬スポーツ少年団員」を実施していて、誘導馬たちはそこでは〝乗馬の先生〟として活躍している。フレンドリーで穏やかなライトオンキューは子どもたちに大人気で、その様子を紹介するショートムービーも公開された。馬のお世話を含むレッスンは人間と馬が互いに信頼している様子が伝わってきて、参加している子どもたちが羨ましくなった。
世界の競馬関係者を唸らせた
サラブレッドによる〝馬術のフィギュアスケート〟
つぎに登場したのは2頭の馬で、騎乗者はジャケットを着用していた。これから馬場馬術(ドレッサージュ)が公開されるという。これはパリオリンピックの日本チーム〝初老ジャパン〟が92年ぶりのメダル獲得によって新たに注目された総合馬術競技の3種目のうちのひとつでもあり、アリーナ内で馬の歩調や演技の正確さや美しさを競う〝馬術のフィギュアスケート〟といわれる競技だ。ちなみに今回のメダル獲得は、日本の引退競走馬の余生支援の推進効果という点からも大きな期待が寄せられている。これをきっかけに乗馬人口が増えれば、セカンドキャリアとして乗馬クラブなどで活躍できるサラブレッドが増えるからだ。
演技は静かにスタートした。オリンピック開催前まで、私は馬場馬術について〝馬が欽ちゃん走りをする謎の競技〟という認識しか持ち合わせていなかったが、テレビ観戦のおかげで少しだけ理解できるようになった。とはいえ演技の良し悪しや、細かいジャッジについては不明なままで、私にとっての最大の見どころは〝可愛い馬が繊細な演技をするために、めちゃくちゃ頑張っていること〟だ。1歩ごとに肢を高く上げるパッサージュ、後肢を軸に回転するピルエット、交差させながら横歩きする〝欽ちゃん走り〟はハーフパス──会場では進行に合わせて技の解説と名称が紹介され、参加者からはそのたびに温かな拍手がおくられていた。
私は拍手しながら、内心ではまもなく演じられる技への期待をふくらませていた。もうすぐ、アレが見られる……! それはフライングチェンジという、3歩ごとにジャンプする技で、まるでスキップしているように見えるものだ。オリンピック中継で初めて目にしたときは、四つ足動物の動きとは思えず、馬ってスキップできるのか! と心底驚いた。馬場馬術の課題のなかでもダントツの可愛らしさで、それをリアルに拝めるだけでも「来てよかったー」と心から思った。
「おおー!」
フライングチェンジが披露されたそのとき、大きなどよめきと拍手があがった。それは主に海外からのゲストによるもので、どうやら「サラブレッドがここまでできるのか……!」という驚きの声らしい。馬術が盛んな国でこうした競技で活躍しているのは、専用に生産・育成された品種の馬たちだ。ゴールに向かって疾走することが得意なサラブレッドには、馬場馬術のような細やかな動きは難しいというのが一般的な評価のようだ。オリンピックレベルの馬術競技大会にサラブレッドがエントリーすることはめずらしく、今回のパリでも総合馬術オーストラリア代表の1頭のみだった。
だが目の前の引退競走馬たちは、馬術のフィギュアスケートと呼ばれる繊細な技をしっかりと披露している。日本で実施されている引退競走馬のリトレーニングプログラムは、どうやら世界的にも一目置かれる内容ということがわかってきた。
【後編に続く】
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