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「涙うつし」【短編】

「ねえ『涙うつし』って知ってる?」
「ナミダウツシ?」

 大学の食堂で町田薫が思い出したように私に話しかけてきた。彼女は大きな口でカレーライスを食べながら頷いて、まだリスのように膨らんだ頬のまま「ひああい?」と首を傾げた。

「飲み込んでからにしなよ、私はもう今日は授業ないし、薫は次三限ないんだからゆっくり話できるじゃん」

 呆れた私はスマホSNSアプリを起動させ、その海に身を泳がせた。ニュースを流し見ていると、最近ハマっているアニメの第二期放送決定の記事が目に入る。ふむふむ、次の夏アニメか。見逃せない。私は続いてスケジュールアプリを開いて、アニメの予定を入れた。重要だ。
 一方、薫は涙うつしの話をよほど私に話したいのか、彼女は残りのカレーライスをかき込み、ぐーっと水まで綺麗に飲み干し、もう一度私に同じことを尋ねた。

「で? 知ってる?」
「んー、やっぱり私は聞いたことないかなあ」
「ええー? 嘘でしょー、小春なら知ってると思ったのにー」
「なんでよ……てかなんなのそれ?」
「ほら、小学校の時とかになかった? 七不思議とか、こっくりさんとか。そういう類いのものらしいんだけど、どうやら厄祓い的な意味も含むみたいでさ」

 私はスマホをいじる手を止めた。厄祓い。なんだか私は嫌な予感がして、スマホから薫に目線をずらした。ため息を吐いて呆れた顔をする私と、期待に満ちた顔でふんすと鼻息を荒くする薫。

「もしかして……だから私に聞いてきたの?」
「その通り! お家が神社だから、なんかそういうの知らないかなって思って!」

 彼女の言う通り、私の実家は神社である。幼い頃から神社が忙しい時は巫女さんとして手伝っていた。継ぐつもりは更々ないが、この家柄、ある程度の知識は育ちながら日本語を覚えることと同義であった。

「悪いけど、知らないよ。災厄の祓い方にもいろんな種類があるけど、そんな名前のやつは聞いたことないかな」
「そっかーじゃあ仕方ないか」
「ていうか、いいの? もうすぐ学祭じゃん。瑞沢君狙ってるんじゃないの?」
「あー! 言わないで! しーっ、しーっ!」

 瑞沢千尋。学部違いの同級生らしい。とても人気な男の子らしいが、生憎、私はこの手の話には疎い。恋の駆け引き云々もしたことなんてないし、恋愛の教科書は歳を二十も重ねた今でも少女マンガ止まり。垢抜けレースからは完全に出遅れ、雑誌を買って読んでも目が回る。韓国系とか、流行りのメイクだとか、骨格ウェーブ? ブルベ? イエベ? わからない。カラコン? いや、怖い怖い。

 薫はその人気の瑞沢君とサークルで出会ったらしいのだが、本人曰く、イイカンジらしいのだ。一度瑞沢君を話題に引っ張り出すと、それまでの話題を全部消し去って、瑞沢君でテーブルが埋まる。今回はその、ナミダウツシとかいう話題を避けるために、瑞沢君をいいように利用させてもらった。

「どう? 正直あたし、いけると思う?」
「ど、どうって……私瑞沢君のこと知らないし。それに今は大会近いから恋に現を抜かす暇が……その、ないというか」

 私は弓道部に所属しているのだが、私を含めた五名の団体戦の方で全国大会出場をかけた試合に出場できるのだ。なので学祭当日も、そんなにあちこち回っている暇がない。大会は七月頭、学祭は七月末なのだ。

「まあそうだよね。神社の方もお祭り準備で忙しそうだし。はあー、涙うつしが厄祓いじゃなくて、縁結びだったらよかったのに」

 薫はネイルの綺麗な画像を不貞腐れながら漁っている。チラリと目に入る私には無縁のキラキラした世界。いいなあ、なんて思っているとピコンという通知音と一緒に「英文レポート」というリマインドが表示された。

「えっ、待ってやばい。私四限のレポート書いてないことに気がついた」
「あーあ。じゃあ私は今日は帰るね!」

 青い顔をして叫び天を仰ぐ薫に手を振って、私は真っ直ぐ帰宅をした。梅雨に微睡む六月の束の間の晴れ。大学を出るとジリジリと肌がアスファルト共に焼かれ、加えて湿度で蒸されていく。遠くに見える大学の最寄駅が揺らいで見える。「カゲロウ」って、どういう文字を書いたっけ、なんて思いながら天然蒸し焼きの世界を歩いた。


「ただいま」
「遅かったじゃない、小春。早く準備なさい」
「……はい」
「全く、毎年のことだって言うのにこの子ときたら……春渡はあんなに立派なのに」

 六月の末、神社では夏越しの大祓と言われるお祭りがある。これは全国の神社で毎年同じ日に執り行われるお祭りで、半年ごとに知らずに身についた罪穢れを祓うというものだ。六月末のものを夏越の大祓、十二月末のものを年越し大祓と言い、古くから親しまれている。
 当然、大きなお祭りのある時期、神社内は忙しくなり私は当たり前のように駆り出される。私の都合は基本的に後回しなのだ。

 春渡、と言うのは私の双子の弟だ。同じ双子だと言うのに、春渡は全体的に私よりも出来が良かった。そもそも神社の跡取りが双子だなんて、不吉もいいところだと言って、女である私は余計に忌み嫌われ育った。
 書道や剣道、お琴や舞、全部弟の方が頭ひとつふたつ抜き出ていた。しかし、弓道に関しては私が唯一勝てたものだったのだが、今度はそれが一周回って面白くないのだろう。褒めるどころか弟より秀でるなどと、と、練習をさせないための陰湿な嫌がらせを幾度となく経験してきた。

 もう何年もこのような生活を送っているが、そう言ったものを心穏やかに流せるような性分ではなかった。自室に戻って洋服を放り、バッグを叩きつけようと振り上げたが、大きな音を立てれば面倒な言葉が飛んでくる。グッと堪えて草臥れた人形のように座り込んだ。

「こんなだから。いつまで経っても垢抜けないままなのよ」

 ファッションに疎いのも当たり前だ。帰宅すればこうして装束を着て家の手伝いをし、家族目を盗んで今度は道着に着替えて弓を引く。髪の毛も、メイクも、ネイルも、何もかも、私の生き方そうさせてはくれないのだ。そうやって十分かそこら項垂れて、母さんから催促のないことをいいことに急いで巫女装束に着替え、仕事の手伝いに向かった。


「大祓の茅の輪でございますね。五百円のお納めでございます」
「五百円ね。はい。暑いのにご苦労様だね」
「確かにお納めいただきました。お気遣い、ありがとうございます」
「健康が一番じゃからのう、わはは! じゃああのーほら、和紙でできてるあの……」
「形代ですね。お持ちいたします」

 どんなに暑かろうと、笑顔で参拝者の方と窓口で対応する。この時期は大祓関係で授与所にくる参拝者で賑わいを見せるため、窓口のほとんどは開けっ放しだ。故にエアコンの涼しい風はどんどん逃げていく。暑い。アイスが食べたい。瓶ラムネのパチパチとした喉越しが恋しい。

「では作法通りにお願いいたします。この形代にお名前とご年齢をお書きになりましたら、形代を左、右、左の順番で身体に撫でつけてください。その後、形代に三度息を吹きかけたら終了です。終わりましたらお声がけください」

 はあい、なんて間の抜けた返事が聞こえる。
 形代。大祓では半年ずつ積った罪穢れを人の形をした紙人形「形代」に各々移し、それを大祓の祭事で祓って清め、焚き上げることで無病息災などを祈願するものだ。昼間、大学で薫が言っていた涙うつしも、これに似たようなものなんだろうか。

「ああ、そうだ小春ちゃん」
「いかがしましたか」
「孫がねえ、言ってたんだけど。涙うつしのお人形ってここにあるかい?」
「涙……うつし、ですか。えーっと……」

 困ったぞ。こんな爺さんでも知っているようなものだったのか。答えられなきゃ母にしばかれる。やばいやばい。汗がどっと出てくる。正直にわからないと答えようか。いや、でも本当に私の知らない神道の何かだったとしたら、わからないなんて言った日には夕飯抜きだ。

「恐れ入りますー、新田さんお元気ですか? 松前です」
「おおお、まりこちゃん。これはこれは。元気だよ、おかげさまでね」
「良かったです。あ、涙うつしでしたよね? あれは神道とは関係ないので、そのためのお人形は頒布してないんですよ」
「あいやー、そうかいそうかい。ありがとさん」
「いいえー! じゃあ作法終わったら小春ちゃんに渡してくださいね」

 松前まりこ。この神社で私が唯一心を許せる巫女さんだ。私の三つ年上の従姉妹に値するまりちゃんは、小さい頃からよく私の側で私を守ってくれていた。
 以前それとなく聞いた時、「幼心でもわかっていたのね。あれが小春ちゃんに良くないものだって。私の家じゃ私は末っ子だから、妹みたいなあなたを放っておけなかったのね」なんて言って笑って頭を撫でてくれた。まりちゃんは大学卒業後、私の家の神社に就職して巫女さんとして働いている。そして今も変わらず、何かある度私の前に立ってくれる。

「まりちゃんありがとう」
「小春ちゃん涙うつし知らないの?」
「いや、今日大学の友達から初めて聞いたんだけど、なんなのかまで聞かなくって」

 小声で会話をする。そっと背後を見渡して、誰もいないのを確認する。そしてまた小声で話し始める。

「社務が終わったら今日もこっそり稽古?」
「そのつもりだけど、どうして?」
「弓道場で待ってるね。涙うつしについて、教えてあげる」

 そういうとまりちゃんはお客さんのお茶出しに小走りで向かっていった。涙うつし。こっくりさんレベルの都市伝説になりつつあるのかと考えていると、新田さんから「小春ちゃーん、終わったよう」と声をかけられ、形代を受け取って私はまた仕事に戻った。


 陽が傾いてきて、額の汗を手の甲で拭うのにとうとう限界が来た。袴の中も最高に蒸し暑い。かといって、巫女が奉仕中にうちわで袴の中を扇ぐ訳にはいかない。コスプレ巫女とは訳が違う。第一にそんなことをすれば母さんだけのお咎めにとどまらない。黄昏時、僅かに訪れた余暇にペットボトルの水を飲む。水も蒸されて常温になっている。ああやっぱり、瓶ラムネが恋しい。そんなことを思っていると、目の前に白い手ぬぐいが差し出された。

「ほら」
「春渡……ありがとう」
「はい、弓道場の鍵。早く隠せよ。どうせ今日も行くんだろ?」
「うん。大会近いけど、学校は学祭モードでなかなか集中できないから」

 弟は無愛想だが、両親と違って私を嫌っている素振りはないし、うまく私が立ち回れるようにこっそり手回ししてくれている。まりちゃんと同じで頼れることには頼れるのだが、弟の近くにはいつも両親がついて回っている。よって完全に気を抜き、素でいることはできない。

「小春! 何を座って休憩しているの!」

「母さん……すみませんちょっと、水分補給を。今日はほとんど窓口を開けっぱなしですから、エアコンの風がうまく回らないのです」
「そんなもの……お前は冬場も同じことを言って。暑いだの寒いだの。全く、何年ここで面倒を見てやっていると思っているの」
「申し開きもございません」
「だったら早く仕事をしなさい。なぜお茶出しを松前がやっているの。お前の仕事でしょう、しっかりなさい!」

 新田さんの形代を、だなんてもう母さんの耳には言い訳以外の何物としても受け付けないだろうと、これ以上を押し黙った。弟は私の隣で何も言わずにずっと立っていた。

 境内に一日の奉仕の終了を告げる太鼓が鳴り、母さんの説教が短めに終わると、弟は目線を寄越すことなく、小声で「今日も上手くやれよ」とだけ言って、社務所を閉め始めた。私は弟のくれた弓道場の鍵を握りしめて「うん、ありがとう」と小声で返した。

 夜が更け、辺りを月明かりだけが灯すような的場はなんとも幻想的だ。普段も張り付けている空気が、もっと澄んで、凛とした場になる。両親が寝静まるのを待ち、道着に着替え、弟からもらった鍵を持って弓道場に行くとまりちゃんがもうそこで待っていた。

「ごめんね、待った?」
「ううん、大丈夫。それより急ごう」

 この後矢を放つ弦音なんかを響かせる訳だが、なるべくならば音は最小限に抑えたい。ゆっくり鍵を回し、道場に入って準備をする。

 神棚に挨拶をし、まりちゃんが的をつけに行っている間に私は弓張りをし、手に弓懸をつけ、呼吸を整える。数回深い呼吸をした後、まりちゃんが「一矢、射ますか?」と聞いてきたので、頷いた。

 足踏み、足を開く。胴造り、弓を左膝に右手を腰に。弓構え、右手を弦に掛け的を見る。打起し、両拳を持ち上げる。引分け、弓を左右均等に分ける。会、発射のタイミングの頃合いを待つ。

 カーン!
離れ、矢を放つ。間を切り裂くような弦音が的場に響く。残心、暫く姿勢を保つ。

「んん! 相変わらず惚れ惚れする射法八節だね。綺麗な弓返りだし、見事、いいところに中るね!」
「ありがとう。これだけが取り柄だから」
「もう一矢射る?」
「ううん、今日は……ほら」
「涙うつし、ね。わかったわかった」

 私は弓を直すと、まりちゃんに向き直った。まりちゃんはなんだか、これから怖い話だとか、都市伝説だとか、そんな話をするくらいのちょっとしたわくわく感のある顔一切していなかった。深妙な顔、という感じで私の前に座った。

「小春、話してはあげるけど、やろうだなんて思っちゃダメだからね」
「え、やらないよ。こっくりさんとかそういう感じでしょ?」
「まあ……似たようなものなんだけど」

 そう言って話し始めた涙うつしの内容は至ってシンプルだった。人形に自分の涙をうつすことで、自分の苦しみや悲しみといったものを人形が持っていってくれると言うものだった。なるほど。新田さんがお孫さんに頼まれて、神社にそのお人形がないか聞いてくるのも納得だ。形代にそっくりだ。

「でもね、ここで使うお人形は、形代みたいなただ人の形をした簡易人形じゃダメなの」
「え、ダメなの? なんで?」
「言ったでしょ。『涙うつし』だって。だから、必ず目のあるお人形じゃなきゃダメなの」
「あ、本当に涙を目に移さなきゃいけないのね」

 しかし、これだけ聞けばいい話じゃないか。大祓の形代みたいに、身代わりとなってくれるって意味だろう。なぜそんなにまりちゃんが暗い顔をするのか、私には理解できなかった。

「ねえ、なんでやっちゃダメなの?」
「それはね……人形に感情を吸われて、最後には自殺しちゃうんだって!」
「え? 何、そういうこと?」
「そういうことって、どういうこと?」
「都市伝説にはつきものだよそういう話。こっくりさんとかにもあったよ。あーあ、期待して損しちゃった」

 私は弓をまた持ち直し、次の的の前で足踏みをする。胴造り、弓構え、打起し、引分け、会……

「待って、小春! これは本当なの、信じて!」

 カーン!
離れ、矢を放つ。弓が返り、間を切り裂くような弦音が的場に響く。残心、暫く姿勢を保つ。

「もう、まりちゃんは心配性だなあ。大丈夫だよ、無闇矢鱈にそんなのには手を出さないって」
「……本当だね、小春」

 あははと笑って安心させようとしたのに、まりちゃんは鋭い眼光で私の目を射抜くので、それに少し身震いをした。

 まりちゃんが帰り、的場に私だけが残った。しかし放った矢は当たらなくなった。成績は全部的中の皆中はなし。全部中らない残念か、良くて二矢的中の羽分け。全く集中できていない。全国大会出場権をかけた試合を前にして、この成績はまずい。大会は個人戦ではなく団体戦。私は五名中最後の矢を射る落を任されている。勝負の命運を決めるかもしれないのだ。

 もう時間はない。


 神社での夏越しの大祓も滞りなく執り行われ、神社社務内は少し落ち着きを取り戻した。ピリついていた母さんも少し柔らかくなった様子だった。

 相変わらず、私は夜な夜な的場に矢を射に向かう日々が続いている。矢を夜明けまで射っては、朝には支度、次に大学、学祭準備に学校での大会練習、立練がある日はそれに参加した。そこから帰宅し、神社の手伝い。私の身体は疲弊しきっていた。

「ねえ、小春。大丈夫? 顔色悪いよ」
「え? そんなことないって。それで? こないだの瑞沢君とのデートがなんだって?」
「そうそう! それでね……」

 薫は相変わらず、瑞沢君とうまくいっているようだ。幸せだ、と言うオーラの色がついて視えるくらいに、もう全身から毎日を楽しんでいるようだった。綺麗なグレーアッシュ? と言う髪色にキラキラした目元、桜色の唇に、綺麗なお洋服。あ、このネイル、この前画像見てたやつ。

「……羨まし」
「ん? 小春ごめん、聞こえなかった」
「えっ? ああ、大丈夫大丈夫、独り言!」
 無い物ねだりだ、こんなもの。この場にいては、薫に何を言ってしまうかわからない。やっぱり体調が……とか言って帰ろう。大会は明日だ。この身体や心の具合じゃ、とてもいい矢は射られない。
「んんー、薫。ごめん! 今日はちょっと……」
「ほらやっぱり。大丈夫だよ! なんと私今、瑞沢君にご飯行かないかって誘われちゃいましたー!」

 じゃじゃーんというセルフ効果音つきでスマホの画面を見せてくる。よかったじゃんと笑って私は手を振って、薫に背を向けた。うまく、笑えていただろうか。



「ほら、今日も鍵」
「…………」
「おい、小春。聞いてるのか?」
「え? あ、鍵。いつもごめんね」
「構わないさ。明日だろ、大会」

 弟は今日も弓道場の鍵を私に持ってきてくれる。それを白衣の袖に入れ、仕事に戻ろうとした時、ガクン、と膝の力が抜けた。勢いよくその場に倒れ、流石の大きな音に驚いた父さんが様子を見にきた。

「なんだ、小春か。つまづいたのか? はっ、何年その装束を着ている。春渡に怪我はないだろうな」
「父さん、僕は大丈夫です」

 ああ、やはり弟は両親の前ではまりちゃんのように私の前に立ってはくれないのだな。わかりきったことを項垂れて、いつも通り謝ろうと状態を起こすと、私の袖からチャリンと鍵が落ちた。私の身体が一気に強ばるのがわかった。

「ん? これはっ、弓道場の鍵じゃないか! 小春! いったいどういうことか説明しなさい!」
「練習を……したくて」
「練習だと? お前に貸す道場などない! 何度言えばわかるんだ!」

 父さんは私から鍵を奪って、怒鳴りつけた。直後、父さんは私の白衣の襟を掴んで床に投げ捨てた。私が強打した肩の痛みに呻いている時でさえも、弟の目はただの傍観者、他人の目だった。弟は父さんに連れられてどこかへ行ってしまった。今日に限って、まりちゃんはいない。私は痛む肩をさすりながら自室に戻り、仕方なくゴム弓で練習をした。

「どうしよう、打った肩が痛くて、会を長く保っていられない……」

 会は、弓を最大に引き、矢を放つ絶好のタイミングが熟すまでその時を待つ大事な瞬間なのだ。しかし、ゴム弓でもそれが難しいとなると、本番の弓でそれが保てる可能性は低く、満足のいく射はできない。私は不安のまま床について、このタイミングと家族を恨んだ。

 大会本番。綺麗な晴天でその日を迎えた。神社の的場に置いてあったはずの私の弓は「いってらっしゃい」と弟の筆で書かれたメモと共に置いてあった。あまりよく寝られなかったせいだろうか、肩が痛いせいだろうか、なんだかうまく集中できないで本番前の立練に臨んでいた。

「内田さん、大丈夫ですか?」
「先生……」
「会がうまく保てていないようだけど」
「だ、大丈夫です! 早気じゃないですから! 緊張してるからかな。あはは」
「そうですか」

 先生は人一倍、早気を気にする人だった。早気とは、会を自分の意と反して長く保てず、半端なタイミングで矢を放ってしまう厄介な癖のことだ。直すのにはそれ相応の時間のかかるもので、かつて先生もそれに苦しんだらしい。私の無事がわかると、声を張って生徒を鼓舞した。

「我々、弥生大学弓道部は、第二射場。射順は前回大会と同じく、大前、柳。ニ的、長澤。中、戸村。落前、橋下。落、内田。以上五名、凛として弓を引きなさい」
「はい!」

 大会のアナウンスと共に、第一射場では相手校の瀬川大学、第二射場では私達の準備が始まり、程なくして大会が始まった。

 大前から落までの五人が一人一射ずつ弓を引く。これを四巡行い、計二十射中、何射的中かを競う。カーンという心地のいい弦音と、少し遅れてトンと的に中る音が順に近づいてくる。いつも通りの射法八節を丁寧にこなす。打起し、引分け、肩が震える。力を無理矢理入れて弓を引き、会。しかし長く保っていられない。痛い、痛い。まだだ、まだ放つな。保て、待て、私の肩。

 大会は接戦だった。三巡目終了時点で両校十二中。私の肩も限界だった。もうどう力が入っているのか、なんの感覚もない。肩から痺れて指先まで緊張とは違う震え方をしている。来たる四巡目、両校とも大前から順に全員的中。落で勝負が決まる。私で、勝負が決まる。

 カラン!
前の皆がばっと振り向き、青ざめた顔をしている。目線だけ下にやると、私は弓に番えた矢を落としていた。失矢だ。もう、矢を射らせてはもらえない。

 後ろでトン、と相手校の落が的中させた音がした。わあっと歓声と拍手があがり、私達、弥生大学弓道部の全国大会進出は叶わなかった。

「てめえ、内田! 失矢だと? ふざけるのも大概にしろ!」
「うっ……ごめん」

 もしかして「仕方ないよ」「よく頑張った」なんて言ってくれるかも、だなんて思っていたのが間違いだった。男の子の力任せに壁に叩きつけられ、怒号を浴びる。当たり前だ。失矢なんて。それで勝負の弓を引くことさえも、させてもらえなかったのだから。

「お前で、勝負が決まるところだったろ! 俺たちがお前に落を任せているのは、お前が良い弓引きだからだ! それなのに、失矢……? 中る以前の問題じゃねえか! お前なんて弓を引く資格……」
「橋下くん、落ち着きなさい! 確かに、失矢はあってはならない事です。しかし、内田さんが良い弓引きである事には変わりません。結果は結果です」
「ですけど!」
「一番に悔いているのは内田さんでしょう。一番に責めているのは内田さん本人でしょう。そうやって追い込め、傷をつけるのは本人だけで良いのです。他者がつけていい傷など、ないのですよ。」

 さあ帰りますよ、という先生の言葉に皆の重い脚がついていった。なんだか先生はいいことを言ってたような気がするのだけど、自分がつけていい傷、そんなのだってないだろうと思いながらも、心の中では沢山の傷をつけていた。当然、晴天後の見事な夕暮れを見上げて、綺麗だなんて思う心の余裕もなく、ただひぐらしの声を聞いていた。

「だけど、失矢なんて……ちょっと橋下があれだけ怒るのわかっちゃうかも」
「たしかに。流石にね……」

 小声でチームメイトのそんな声がひぐらしを遮って聞こえる。ひぐらしで掻き消そうとすればするほど、チームメイト以外からも「あの子失矢の……」「惜しかったわよねえ」「可哀想に」そんな声が聞こえてくる。

 苦しい、苦しい。
 もっと練習させてもらえていれば。父さんに投げられるだなんてことがなければ。あんな家に産まれていなければ。弓なんて引いていなければ。普通の女の子をしていれば。

「こんな事には……ならなかったのかな」

 もっと愛に溢れた言葉をもらって、温かい空間で生きて。恋をして、かわいくなって。毎日袴なんかじゃなくて、ひらひら靡くスカートを履いて。髪も綺麗に染めて緩く巻いて。
 夢物語のような「もしも」の世界をひたすら馬鹿のように口を半開きにしながら考え、帰路に着く。家の前まで来てやっと、それが夢で叶うはずのないものだと現実に引き戻される。今日が大会だなんて言ってない。なぜ手伝いに来なかったと叱られ、身体のどこかに痣ができるんだろう。ふらふら、ふわふわした頭のまま、玄関の扉を開ける。

「……ただいま」
「お前、手伝いに来ないからどうしたのかと思ったら……春渡から聞いたぞ。弓道の大会だったそうじゃないか」
「それであんなコソコソと練習を? そんなことしてたんだもの、結果は出たんでしょうね。全国大会? でしたっけ。なんでもいいのだけど。それで?」

 ああ。いやだ。両親揃いも揃って私を玄関から先に入れる事なく矢継ぎ早に見えない浅い傷をつけてくる。擦り傷ぐらいが一番痛いのに。ちょっとした切り傷が一番痛いのに。

「負け、ました」
「負けただと? あっはっは! 所詮その程度ってことだな、お前は。春渡に勝てていい気がしてたんだろう?」
「知らないけど、どうせあなたのせいで負けたんだわ。はあ、くだらない。ほら、もうそんな弓も矢も必要ないでしょう? これからお焚き上げに火を入れるから、早くよこしなさい」

 そういうと両親は私から弓矢を剥ぎ取って、窯の中へ放り投げ、矢の一つを火種にして焚き上げ始めた。私はなんの抵抗もしなかった。ただ静かな悲しさと苦しさを目から流して、その火を立ち尽くして見ていた。

「いらないじゃない。こんな人間。どこにいても除け者じゃない」

 業火に焼かれ、灰となった弓矢を前に陽が落ち、月が登るまで崩れ落ちて傷心していた。自分でつけた傷も、周りからつけられた傷も何もかもが痛くて、苦しくてたまらなかった。
 袖で涙を拭うとその先に人形が見えた。恐らく、窯に入れ損ねたものだろう。私は涙うつしを思い出した。絶対にやるなとまりちゃんに念を押されたが、私の手は既に人形に伸びていた。

「自殺する勇気なんてないし。どうせ、気休めの都市伝説に過ぎないんだろうけど……もし、持っていってくれるなら」

 私は人形に顔を近づけて、その目に涙をうつした。うつした涙は本当にその人形から泣いているかのように目からこぼれ落ちていた。

「あはは、なんか泣いてるみたい。ごめんね、私の身代わりなんかさせて」

 次の瞬間、奇妙なことに人形が涙をうつしていない方からも涙を流し始めた。加えて、私の目から涙が止まり、人形はぼろぼろと泣き始めたのだ。

「えっ、ちょっとまってよ。嘘でしょ」

 私は窯から一目散に部屋へ逃げた。しかし、私がいくら今までの傷を思い返しても、涙は出なかった。それどころか、それを傍観してみていられるような、そんな心地さえした。鏡の前でじっとしばらくそうしていたが、なんだか見覚えのある目線しか、私には感じなかった。

 簡単に日は過ぎ、いよいよ明日が学祭である大学の「学祭モード」は最高潮に達していた。しかし、全国大会出場を逃し、弓道具も燃やしてしまった私には、学祭準備の手伝いと、神社の手伝いのほかに何もやることはなかった。相変わらず薫は自分磨きに拍車がかかっているようで、「今日は瑞沢君とドライブなんだ!」と言って足取り軽くキャンパスを出ていった。ドライブか。車に乗るだけじゃない。何をしにいくのかな。

「燃やしちゃったって、本当なの⁉︎」
「うん」
「大事なやつだったんじゃないの? 弓道だけが取り柄だって、小春ちゃんそう言ってたじゃない!」
「うん」

 まりちゃんは夏の休暇をとっていた。戻ってきた頃には、弓道場の使用、大会で私の失矢で負けたこと、弓道具を燃やされたこと、など一連の騒動が起きた後だった。まりちゃんがもしいたら、私の前にいつもみたいに立ってくれていたのかもしれない。しかしそれもなんだかどうでもよかった。

「小春ちゃん、なんでそんな冷静なの?」
「冷静?」
「黙っていられるような性分じゃないじゃない! 大体っ!」

 まりちゃんの声がどんどん大きくヒートアップしている。何にそんな熱くなっているのだろう。何にそんなに怒っているのだろう。なんだって、そんな顔を歪めているのだろう。

「どうしたんです、松前」
「あっ……いえ、失礼いたしました」
「どうせ小春でしょう。小春。今日はあなたが御朱印書きなさい。普段筆を執ってくださる筆耕さんは今日お休みだし、春渡は今日宮司さんの外祭の手伝いに出ています。まあ、もうすぐお戻りになるでしょう。それまで、あなたの稚拙極まりない筆でも構わないから繋ぎなさい」

 まりちゃんが母さんに何か言いたさげに私の半歩前へ出た。すかさずそれを私はとめ「はい」とだけ口にした。

「よろしい。松前は引き続き、社務窓口を頼みます」
「承知いたしました……ねえ小春ちゃ、あ……春渡君。帰ってたんだ、お疲れ様」
「うん。あのさ、小春が最近おかしいの、もしかして涙うつしをやったんじゃないかと思うんだ」

 御朱印を書く椅子に座って、墨に硯、筆、それから朱肉とハンコを用意する。後ろで弟まりちゃんが話しているけれど、何を話しているかまでは聞こえない。小声。つまりは私の悪口なんだろう。どうでもいい。どうでもいい。硯に墨を落とそうとした瞬間、後ろから肩を掴まれて向き直させられた。遠心力で墨が散る。私、弟、まりちゃんの三人にそれぞれかかる。

「あ、ごめんね。墨……」
「涙うつし! やったの⁉︎」
「え?」
「やったのか聞いてるの!」
「ああ、うん。ていうかまりちゃん、肩、痛いよ」

 チラリと横を見ると、弟がいつもの他人事のような顔をして、一線を引いたその向こう側で事を見ている。ぼうっと、見ているようで見ていない。ああ、あの目だ。涙うつしをした日、部屋の鏡で見た見覚えのある自分の目。見えているもの、聞こえているもの、それは苦しくも悲しいものでもない。

「ねえまりちゃん。どうして泣くの? 墨、早くしないと落ちなくなっちゃうよ」
「墨なんてどうでもいい! あんたが……小春が、死んじゃうかもしれないんだよ!」

 まりちゃんの大きな声が社務所に響き渡った。それは側にいた両親へも届いたようだ。当然、墨の散らかった社務所内を見て、墨のボトルを見る私を見て、その怒りに触れて私は連れて行かれた。無論、弟はいつもの目で私を見送った。


 長くにわたる説教が終わり、私の身体は色んな色で所々腫れていた。月明かりに照らしてみると、ナントカ星雲みたいな色をしている。「痛々しい。そんな様を人様に晒すようなことはないように」と父さんに言われて、私は明日の学祭には出られなくなった。

「小春、町田さんから電話よ」
「薫か。もしもし、薫?」
「遅くにごめんなさいね、私、薫の母です」
「あ、こんばんは。こんな時間に何か」
「それがね……うっ、ううっ。ごめんなさいね」

 電話の向こう側で薫のお母さんが泣いている。声を詰まらせて、言葉を詰まらせている。しばらく電話をそのままに待っていると、母さんが「早くしなさい」と私を突いた。痣にあたって少し呻く。

「あ、はい。いえ、大丈夫です。あの、その……何が?」
「薫が、薫がね。交通事故で亡くなったわ」
「ああ……そうですか。えっと、それで?」
「それでってあなた! なんて酷い……もう結構よ!」

 そういうと一方的に電話を切られた。流石に幼少時代から仲の良い町田家のことで少し気になるのか、母さんは何があったのかと尋ねてきた。

「泣いていた。薫のお母さんが」
「ええ? 町田さんが? どうして」
「薫が死んだんだって。はい、電話」
「薫ちゃんが⁉︎ なんてこと……小春、どうしてそんなでいられるの?」
「母さんこそ、どうしてそんなに顔を歪めているの?」
「大事な友達が死んだって言うのに、涙ひとつも流さなければ、そのお相手のお母様に『それで?』ですって……? 我が子ながら化け物よ! あなたは!」

 部屋のドアを乱暴に閉めて出て行った後、私は薫のことについて考えた。幼少期から保育園も小学校も中学校も高校も大学も、ずっと一緒だった。感受性の高い薫は喜怒哀楽のはっきりした子で、人当たりもよく、常に人気者。そんな薫がもうこの世にはいないらしい。

 恵まれない家庭環境の内に育った私によくプレゼントをくれた。「嬉しかった」強情っぱりな薫とはよく喧嘩をした。互いによく「怒った」一緒にこっそり餌をやっていた猫が死んだ時は一緒に泣いて埋葬した「悲しかった」とにかく毎日一緒にいて、笑って過ごしていた。「楽しかった」

「感受性……喜怒哀楽。きどあいらく。嬉しい、怒り、哀しい、楽しい……よくわからない。化け物かあ。確かにそうかもしれないな。感情がなかったら、私じゃなくてもいいよね、ここにいるの。AIとか進歩してるし、元々使い物にならなかったのだもの。仲の良かった薫も死んだんだ。だったらきっと、私の居場所はもうないのね」

 剃刀を手にして手首に押し付けようとすると、部屋のドアが開き、廊下の光が真っ暗な部屋の中に差し込んだ。

「やっぱり、涙うつしをしたんだね。小春」
「春渡……春渡もしたんでしょう。だから、私の今までの惨劇を傍観者でいられた。その目が証拠じゃない。私と同じ目よ。なのに春渡は死なないのね。なんでなんだろう」

 双子揃って生気のない目でお互いを見つめ合った。生きていても死んでいるも同然の感情のない操り人形のような姉弟。散々嫌った私を見下ろす三白眼も、今ではなんとも思わない。憎いとも、恨めしいとも、悔しいとも、なんとも思わない。
 すると一瞬、春渡がニイと、みた事もない笑みを浮かべた。その笑みと同時に、私の首を何かがかすめ、血が流れ出した。

「涙うつしだって? そんな馬鹿なことするはずないだろう。本当に小春は馬鹿なんだな、羨ましいよ」

 よろめく私によって、チラチラと弟のもつ何かを廊下の光と月明かりが順番に照らす。弓道のジュラルミンの私の矢だ。その矢先で私の首をかすめたのだ。かなり深く抉られたのか、徐々に出血の量に耐えられなくなり、私は倒れ込むのと同時に剃刀を落とした。

「面倒だったんだ。神社なんて継ぐ気は無いのに。お前なんかと双子で生まれて。しかもなんで女なんだ? お前が兄であったなら、俺は好きなことができたのに! 習い事も何もかも、全部お前よりできなければ、俺がお前のようになるのだと常に脅されてきた。お前に向けられたあの非道は、俺への見せしめだったんだ。弓道だと? たかがそれが俺よりできたからといって、それに現を抜かすなど! 俺の、欲しかったものを全部! お前は生まれながらに俺から奪ったんだよ。小春」

 弟は詰め寄ってくると、もう力なく倒れている私に馬乗りになり、手首をとって、ジュラルミンの矢先をあてがった。私を見下ろす目はいつもとは違う。生き生きとした目で私をみている。
 ああそうか、あの目は他人事にするしかなかったのか。そうしていないと、自分の中の恐怖に勝てなかったのか。怒る気になんてならないし、同情して泣くにも泣けない。何も感じない。

「弓道で失矢して負けたそうじゃないか。無様だな、小春。だがいい筋書きができたよ。『失矢をして負けたことに耐えられなくて、矢だけじゃなくて、命も自分で落とすことにしました』って。笑っちゃうくらいにいい筋書きに加えて、自分から涙うつしをしてくれて助かったよ」

 ジュラルミンの矢先が私の皮膚と肉を切り裂き、私からまた血を奪っていく。痛くない。苦しくない。悲しくない、悔しくない、憎くない。ただ眠たい。それだけが頭にあった。

 ゆっくりと目を閉じていく私に、春渡は「じゃあね、小春。おやすみ」と言った。

おしまい

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