大丈夫、を重ねる旅
とうとうごはんが食べられなくなった。
食欲が全く湧かない、食べることが日々の中での最たる楽しみだと言っても過言ではないのに。
特に自分の作った料理を食べることができない。
自炊をすることで心の平穏を保ち、生活を整えているくらいに、自炊をすることに重きを置いている。
にも関わらず、自分の作った料理ですら口にできないのだ。
この状態が続いてしまうと、あまり宜しくないなと経験則上、わかっているのだ。
だからこそ、何とかして生活を整えて、自分を取り戻したい。
そんな思いから、久しくぶりの一人旅に出掛けた。
何も煩わしいものがなく、自分のことを誰も知らない場所へ。
人から寄りかかられることもなく、日々常に頭の中にある本業・副業の仕事も自分の手を離れて(結局対応が発生したのでこれは叶っていないのだけども)、他人のことを思う時間も無くして、どこか遠いところへ。
わたしが選んだ場所は「千葉県富津市」だった。
というのも、先日、JRの駅内にて「ここはどこでしょう」という広告を見つけた。
この広告手法は検索エンジンを使ってわざわざ調べる手間があるのだけれど、わたしのような好奇心旺盛なタイプには相性のいい広告だった。
場所はどうやら鋸山というらしい。最寄りは浜金谷駅だな。唯一、今食べたいとも思える海鮮丼の美味しそうなお店も沢山ある。
そんな感じに、わたしの旅の行き先はいとも簡単に決まった。
本当に適当だったし、何にも下調べをしていない。
でもそれくらい、適当に生きてみたかった。
たまには計画性のないことを、無性にしてみたくなる日だってある。
朝もいつも通り9時半頃に起きて、支度をする。散々に荒れ散らかった部屋の、一部分だけを掃除して。
電車に揺られながら、色々なことを考えながら思考を整理する。
目の前に座る男の子の、外の風景を見る生き生きとした目が微笑ましかった。
わかるよ、わたしも外見るの大好きだもん。ついつい見ちゃうよね。
よく晴れた日だったから、車内もどこか明るい空気だった。
船橋で乗り換えて、ミスタードーナツのエンゼルフレンチを1つだけ頬張る。特に食べたくはないのだけど、なんせまだまだ先は長い。
初めての土地や景色に心を躍らせながら乗り換えを繰り返し、2時間半かけてようやく浜金谷駅に到着。
どこか懐かしい雰囲気。どことなく、田舎特有の柔らかな空気感が地元に似ている。
まずは海鮮丼を、と思い2軒ほどGoogleマップの評価が高いお店を訪ねたのだけどあいにく完売。
やはり起床時間が遅すぎたらしい。
若干の後悔をしつつ、過去は引き摺らないと決めているのですぐに気を取り直して別のお店を探す。
唯一、1軒だけまだ開いていたお店があったから、そこに並んだ。
電話の印象がとてもよかったことが印象的。人の些細な態度で感情だって、案外わかってしまうものだ。
発券方式を取り入れているらしく、発券後30分ほど待ち並び、15時頃にようやくお昼ごはんにありついた。
わたしが頼んだ海鮮丼は、海老がぷりぷりしていて、イカも歯ごたえがよかった。
追加料金を払って注文した粗だしも素材の味が活きていて、心地よい。
美味しいと思えた。このお店にしてよかった。
正直、量は多かったから胃もたれをしつつも急いで胃の中にかけこんで店を発つ。
若干駆け足気味に鋸山のロープウェイ乗り場を目指していく。
途中、道に置かれた椅子に腰掛けたおばあさん2人に出会った。会釈をしても許される気がして、ぺこん、と頭を下げたらにこやかな笑顔で「こんにちは」と言ってくれたのだ。
わたしが今、飢えているのはこういった些細な、けれども心のこもったやり取り。
利害関係がない、依存もされない、適度な他人との距離感が心地よかった。たった一瞬のことなのに、本当にうれしかった。
到着時点で日本寺は閉門していたのだけどせっかく来たのなら、と展望台に行くことにした。
往復950円。そこそこ安いなあと思いつつ、狭いゴンドラの中に15人ほど詰め込まれる。
一緒に乗った小学生〜大学生の連れがいて、兄弟か従兄弟同士か、仲が良かった。
「早起きしていたらお寺の方も行けたんだよ」と最年長(恐らく大学生くらい)らしき男の子が言ったのに対し、女の子(恐らく高校生くらい)が「仕方ないよ〜みんなマイペースだもん」と言った。
「わかるよ、わたしも早起きするべきだったもん」と心の中で賛同しつつ、その言葉が向けられた小学生らしき男の子3人に同情した。
「本来来る予定じゃなかったから、また来ようね」と言う最年長らしきら男の子のしっかりとした感じにわたしが励まされた。
そんな感じで会話に耳を傾けつつ、ゴンドラから見える景色は絶景だった。
次第に登っていく景色、遠ざかるほどに輪郭を帯びていく町や海原。
所々桜が見えるのがなんとも春を感じる。
ゴンドラを降りて、展望台に登った後も景色がより一層広く見えて、美しいなと思った。
肺いっぱいに吸い込んだ空気は清々しくて、都会の生温い空気とは違いを感じた。
どこからか鳶の鳴く声がする。海原はきらきらと光っていて、遠くに街が見える。生きてる、を実感した。
無事に下山して17時。まだ日暮れまで時間があると思い、隣町の上総湊駅まで電車で移動したあと、30分ほど歩いてマイナーな観光地へ。
車がひたすらに横切っていく中、わたしはひとり、歩を進めていく。
次第に陽が落ちていく。少しずつ辺りが暗さを帯びていくごとに、わたしはますます孤独になる。それでも知らない土地だから、心地よかった。
陽が落ちる前に次のスポット「燈籠坂大師の切通しトンネル」へ。
昭和初期に手作業で掘られた切りっぱなしのトンネルらしい。
水の滴る音だけが響く、静かな空間。
最近、シャワーの音を鼓膜いっぱいに響かせることに心地よさを覚えていたから、その音にどこか似ているなと思った。
規則的な、水の音。その中にいる不規則で不明瞭で自分という存在の輪郭が曖昧になってしまったわたし。
自分の形を再確認する。そんな空間。
近くのお寺は、どうやら空海が訪れたらしい。空海は地元にもゆかりがある方だから、どこかご縁を感じつつ、しばらく休むことにした。
時々、空からかすかに響く飛行機のエンジン音。
成田空港が近い場所にある。
鳥の囀りも、遠くで響く農家の方の作業音も。
沈んでいく夕陽ですらも。
都会にはない景色。匂い。音。
わたしは自然に飢えている。田舎で育ったのだから、そりゃ都会が窮屈なわけだ、とふと思った。それでもやっぱりわたしは東京がすきだ。
理由なんてなくていい。なんでもあるから、ただそれだけ。
もうちょっと、もうちょっとだけ明日からまた、頑張ろうと思った。
叶えたい夢は東京にしかない。
そんなことを考える、自然に五感を委ねながら。
バスに揺られて近くの駅へ。
バスの中ではずっと1人。他のお客さんは誰もいない。運転手さんが最後、優しかった。
駅構内も、駅員さんも、お客さんすらもいない簡素な駅だった。
電車に揺られながら、帰路に着く。
今の自分が飢えているもの、欲しているもの。
熱望しているもの。焦がれているもの。
負担に感じているもの。感情、感覚、関係。
過去に2度、こういったひとり旅をしたことがあったのだけど、いずれも何かにぶち当たっていた気がするのだ。
18歳、散々な自分を慰める旅。
22歳、かけられた呪いを解く旅。
24歳、今回の旅をいつかのわたしが振り返ったときに、どんな名前をつけるのだろうか。
少しだけ、輪郭を帯びたような気がする。
きっと大丈夫、大丈夫だよ。をゆらゆらと揺れる京成線の中で座る、小さな自分に言い聞かせながら。
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