2023年に気がついたこと
2024年、始まってしまった。
まだ2日しか経っていないというのに、目を背けたくなるニュースばかり飛び込んでくる。
時代は相変わらず混沌としている。
個人的には2023年がまだまだ納まっていないのだけども、昨年度の振り返りを行う上で、幾つか戒めやお守りにしたいことがあったから、つらつらと書き留めてみることにした。
2024年初めのnoteがこれで良いのかわからないのだけど、あまり長々と書く気もない。
単純に2023年を振り返って、人間について考えたことをまとめていく。
人柄は「顔と文章」に出る
人柄は「顔と文章」に出るな、と思っている。
美しい言葉を使う人。瞳が生き生きとしている人。
攻撃的で嫌味のような言葉ばかりを扱う人。
長年の心の歪みで顔や口元すらも歪んでいる人。
雰囲気、文章ともに人間を表するものの一種であり、共通して"纏う"ものだ。
どんな思想で、何をおもい、心の底で愛でているのか。
瞳のかがやきで感じ取り、文章で思想を知る。
人間とはわかりやすい生き物だな、と他者と対峙するたびに嫌気がさす。
関係を続けること、築いていくこと
・気遣い
・想像力の範囲
・許容の程度
が同程度でないと関係を続けていくこと、新たに築くことは難しいのではないか、と改めて実感した。
古来から「親しき仲にも礼儀あり」と伝わりがあるごとく、家族、恋人、友人など関係ない。
どんな関係にも思い遣りは必要不可欠だ。
秤を思い出してみてほしい。
片方にだけ錘が乗り続けてしまうと、関係性に均衡が取れなくなってしまう。
あまりにも脆く、不健全すぎる。
詰まるところ、職種も年齢も住む場所も性別も関係が変わってしまうことには関係ないのだと思っている。
悲しいけれど、想像力の程度が異なる人とは自然と関係が離れていくものなのだ。
一方で、どれだけ距離や時間が離れていようが、想像力の範囲が近しい人同士は、同じ瞬間に集うことができる、笑い合えるのだと実感したこともある。
だからこそ、私自身は他者への気遣いを忘れず、想像力をもって許し合える世界でありたいし、その一員でいたいな、と思う。
許し合える懐の広さは、魂の清さそのものだ。
他者を傷つけて得るもの
同時に、あえて相手を意図的に傷つけるコミュニケーションを取ったり、伝えたりする人にも往々にして出会う。
大抵のケースで他者からの承認を強く求めていたり、自己愛が強すぎるのでは、と推察するのだけど、真意はわからない。
ただ、このケースはSNSでも散見されるので、「満たされていない人」が時代的に多い気がしている。あまりにも。
彼らは相手が傷つく反応が見たいのだろうか。
それとも、傷つけないと済まない、という自己の欲求に勝てないのだろうか。
本当のところは本人にしかわからないものだけど、いずれにしても酷く身勝手だなと思う。
他者を傷つけて、何を得ているのだろう。
その先はただの「空虚」でしかないはずなのに。
物事は多面的である
物事は賽子(サイコロ)のように多面的である。
対人間関係において、片方から見ると正義が成り立つけれど、別の面からは成り立たない、なんてこともよくある。
正義がぶつかり場合、折衷案を模索し、妥協点を探し合うことが必要なのだけど、それすらも難しい場合も中にはある。(ことを知った)
その場合は、物理的にも心理的にも無理矢理にでも距離を置くほかない。
異なる人間が集団生活を送る上で、どうしても対立することは仕方がないことなのでは、と思うのだけど、分かり合えないのであれば離れるほかない。その結論に至ってしまうことはひどく悲しく、虚しいことなのだけれども。
自分の意思を他人に委ねる
自分の意思を述べず、ぼかした状態で他者にボールを渡し、判断を委ねることをしていないだろうか。
「本当はこうしたいのにな」という気持ちがある中、相手のやさしさや関係性に甘えて、自己がするべき判断を中途半端な形で相手に手渡していないだろうか。
衝突を恐れ、調整の手間を面倒事として扱い、自分は安全圏から高みの見物をする。
勝手に期待して、裏切られたと感じても、それは勝手に期待したあなたの責任だし、本来の希望があるならばそれはちゃんと伝えるべきだ。
他者への無駄な期待を捨てて、自分の意思をはっきりさせたコミュニケーションを行ったほうが健全だと思う。
他人とイーブンかつ、ヘルシーな関係を築くことが苦手な人が多すぎる。
自分の意思は自分で決めて、そして相手を慮りながら伝える。
人間関係を築く上で鉄則だ。
5つほど書いてみた。
まだまだ恐らくあるのだけど、思いつく限りはここに収束するのでは、と感じている。
許せないものが多い人生は苦しい。
豊かさの指標は人によって異なるけれども、他者に適切な距離で関心を持ち、許し合える世界になればいいのにな、と強く強く、願っている。
そんな2024年の元旦。いまは2:42。