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「自由は死せず」板垣退助の政治思想をつくったものとは

明治維新の功臣・板垣退助。日本で最初の近代政党である自由党の創設者であり、立憲政治を目指した民権運動の中心的存在。

板垣退助と聞いて、真っ先に「自由は死せず」という言葉を思い浮かべる人は多いかもしれない。これは明治15年(1882年)、自由党総裁として岐阜県の演説会場近くで暴漢に襲われた際、発した言葉だ。実際には「板垣退助死するとも日本の自由は滅せざるなり」と叫んだらしい。いずれにしても「板垣死すとも自由は死せず」は、板垣退助と彼がけん引した自由民権運動を象徴する言葉として現代に伝わる。

「自由は死せず」は、政府の強権と弾圧に挑み続けた板垣退助を飾るにふさわしい言葉ではある。が、板垣退助の政治思想のど真ん中にあるものを探るとき、これよりも注目すべきエピソードがある。それは、彼が官軍参謀の一人として東北遠征した際に起きた。

板垣率いる官軍が会津藩内に軍を進めたとき、妻子を連れ家財を積んで逃げだす民の列と遭遇した。ときは会津戦争真っ只中。残った3000の会津藩兵は討ち死に覚悟で若松城を背に戦っている。にもかかわらず、藩の窮地を尻目に農工商の民たちは四方に遁走する始末。会津は滅んだ。もし領民が一丸となって抵抗したら、官軍はこうもたやすく勝利を手にしただろうか。会津で目にした光景はいつまでも板垣の脳裏から離れなかった。

「楽を共にしないものは、その憂いを共にしない」国を見捨て逃げる農夫たちを見て板垣が強く思ったことである。民が苦しんでいたとき、御上は何をしていたか。この苦労を分かち合おうとする姿勢を一度でも見せたことはあったか。主君が民に寄り添わなかった会津の滅亡は必然の結果である。板垣はそう思った。そして、このような考えに行きつく。

「四民均一の制を建て、楽を共にし、憂いを同じにせんのみ。こうして後はじめて百年の大計なるべきなり。富強の基礎固まるべきなりと」(板垣退助君伝)

民衆本位の政治を目指す板垣の思想は、こうしてでき上った。

板垣退助が会津戦争の体験で得た教訓は、国民が政治にそっぽを向き続ける現代日本にも通じるはずである。





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