【大東亜戦争開戦前夜】日米交渉1|日米諒解案から南部仏印進駐まで
満州事変、日中戦争、三国同盟。国益を掛けた日本の行動はことごとく米国の虎の尾を踏み、日米関係は極度に悪化した。
開戦という最悪のシナリオを回避するために、日米の国交調整に向けた交渉がスタートする。
二元外交の失敗
日米交渉が正式にスタートするのは昭和16年2月、野村吉三郎海軍大将が日本大使として米国に赴任してからである。
難しい局面を迎えた日米関係の建て直しを図るべく、野村は米国務長官のコーデル・ハルと意見を戦わせる。議題の主題は、日本と中国の紛争問題や、ドイツと同盟を結んでいた日本の欧州大戦への意向確認、廃棄された日米通商条約回帰問題についてである。ふたりは16年3月8日カールトン・ホテルにて初会合を開いて以来、真珠湾攻撃が敢行された12月8日まで50回以上に及ぶ協議を積み重ねることになる。
●野村吉三郎
海軍大将。各国駐在武官を歴任。在米海軍武官時代、当時海軍次官であったルーズベルト大統領とも親交があった。
●コーデル・ハル
1933年3月~1944年11月までルーズベルト大統領のもとで国務長官ポストを任される。大統領の厚い信任を受け、対日交渉の責任を一身に背負う。
民間人の交渉でまとめられた「日米諒解案」
野村とハルが国を背負って交渉に臨む中、水面下では私人間による秘密交渉も行われていた。交渉を任されたのは、日本側が産業組合中央金庫理事で大蔵官僚OBの井川忠雄。アメリカ側が米国カトリック教会の重鎮であるドラウト及びウォルッシュ。それぞれ近衛文麿・ルーズベルト両首脳とつながるパイプをがあった。
野村が米国に派遣された後、井川忠雄と交流のあった陸軍大佐・岩畔豪雄が野村の補佐役として米国に赴任。ドラウト・ウォルッシュ両牧師との間で私的討議を繰り返し、極秘裏に日米国交調整に向けた試案作成を進めていく。その結果取りまとめられたのが『日米諒解案』であった。
【日米諒解案の要旨】
・アメリカは日中間の仲介に立って両国の紛争解決に助力する
・日本軍の中国領土からの撤兵
・門戸開放路線への回帰(九ヵ国条約回帰)
・日米通商関係への回帰
・アメリカが欧州大戦に参戦し、米独の間で戦端が開かれても、日本は三国同盟に基づく軍事上の義務を発動しない
難航を極めた支那事変の解決に米国を仲介役として引きずり出し、合わせて通商問題と南方問題も解決する。そして、満州国も中国蒋介石政府に承認させる方向で米国が斡旋を引き受ける。
三国同盟を大きく毀損することなく、日米国交調整へ向けた歩み寄りが期待できる草案と解釈した政府および大本営は、この案におおむね賛意を示した。まずは欧州とソ連を歴訪中の松岡外相の帰国を待ってから、野村大使に日本側の回答を訓電する方向で話がまとまった。
アメリカの思惑
この時期のアメリカ(というよりルーズベルト政権)が第一に優先すべき問題は、ドイツの侵攻からイギリスを守ることだった。
欧州戦争がイギリスの完全有利にならない間は東アジア問題(中国大陸における日中間の争い)の処理に本腰を入れる余裕がなく、まして日本と戦争する準備も態勢も整っていない。
大西洋には、アメリカから派遣された対英援助を目的とする輸送船が遊弋していた。ドイツ海軍の攻撃を受ける可能性は多分にあり、そうなればただちに米独開戦となる。ドイツと同盟を結ぶ日本は三国同盟の軍事援助義務に基づきアメリカを攻撃することになる。現時点の米国海軍の軍備では太平洋と大西洋の二正面作戦は不可能である。対日戦争は起きても、今ではない。日米交渉の間に時間を稼ぎ、なおかつ三国同盟を骨抜きにして対独戦争での憂いを払う、というのが米国の狙いだった。
松岡修正案に米国の態度硬化
私人間による日米の裏交渉が進む中、欧州を外遊していた松岡外相は、ドイツ訪問を経てソ連を電撃訪問。スターリン総統との直接会談を実現し、日ソ中立条約を締結させた。グルー日誌によれば、この条約は内閣の承認を得ない松岡の単独意志による外交結果であり、近衛首相は大いに不満であったという。松岡の狙いとするところは、三国同盟の延長線上に日ソ中立条約を据えての対米封じ込めであった。
内閣の意向を聞かず独断で押し切った日ソ中立条約に近衛が不満なら、外務大臣の留守中にまとめられた日米諒解案は松岡の怒りを買った。松岡は案の内容そのものにも苦言を呈する。彼からすればこれは三国同盟の骨抜き案にひとしい。アメリカが対独戦争に踏み切っても日本は参戦しないと言っているのだ。三国同盟の締結に主導的な役割を果たした松岡からすればとうてい承服できないものだった。
松岡外相は自分の意見を反映させた修正案を提出した。
その要点はこうである。
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・日独伊間の軍事的援助義務は、三国同盟条約に基づき発動される
・日本軍の中国大陸撤退とは関係なく、米国は蒋介石政権に和平の勧告をする
・石油・ニッケル・錫などの鉱物資源の日本への供給に米国は協力する
この修正案を手渡された野村は、5月12日にハルを訪れ、協定草案として提示した。それを見たハルはどう思ったか。彼自身が著した回顧録から見てみよう。
アメリカ側は松岡修正案を退け、譲歩するどころか強硬な態度に転じて6月21日に対案を提示してきた。その概要は次に示す通りである。
・日支間の和平解決手段は、国際通商関係における無差別知待遇と日本側の武力撤退を原則とする
・米国が欧州戦線に参戦しても、日本は参戦しないこととする
・満州を中国に併合し、満州事変以前の状態に戻す
「米国との交渉は、下手に出れば失敗する。米国みたいな国は、脅迫的態度に出て威圧するほうが効果も上がる」と豪語していた松岡であったが、自信満々の対米交渉プランはもろくも崩れ去った。
それにしても、日ソ中立条約は内閣に無断で結ばれ、日米諒解案は外交トップのあずかり知らぬところで話し合われる。政府の不統一と統治能力の欠如は、戦争を防げなかった大きな要因の一つと言っていい。
南部仏印進駐が招いたもの
交渉過程において日本の誤算はふたつあった。ひとつは、6月22日に幕を開けた独ソ戦である。ヒトラーは松岡が訪欧する五カ月も前から『バルバロッサ作戦』を最高機密に指定してソ連侵攻を目論んでいた。
三国同盟と日ソ中立条約の両輪で極東秩序の維持を図るとともに、米英を牽制して対米戦争回避を狙う松岡の外交戦略は、独ソ開戦で瓦解した。
その影響を受けて策定された『情勢の推移に伴う国策要綱』では、北方戦略より南方――つまり仏印へ軍部の目を転じさせることとなった。
そしてこれが二つ目の誤解を生むことになる。 7月24日、陸軍の南部仏印進駐を受け、米国政府の動きと国内世論が急変したことを、野村大使が電報を通じて知らせてきた。これに対する軍上層部の見方は冷ややかなものだった。参謀本部戦争指導班の日記から抜粋する。
この陸軍参謀部の見通しの甘さをあざ笑うかのように、米国はその5日後に対日資産の凍結を発表した。英欄もこれに追随し、かくして日本を経済的に追い詰めるABCD包囲網が形成された。日本にとっては武力行使に勝るとも劣らない痛撃であった。
アメリカがいかに日本の南方進出を重大視したか。これを知る一つの参考として、駐日米国大使ジョセフ・グルーにルーズベルトが送った書簡の以下の文から見て取れる。
ルーズベルト政権の最優先課題は、対独戦争を戦うイギリスを勝利に導くことであった。ドイツを勢いづかせる日本の南方進出はその目的を阻むことになる。海軍が主張する「米英不可分」の認識は陸軍にはなかった。
目測を誤ったのは、日本だけではない。
国務省極東部長のハミルトンは、6月23日に提出した意見書の中で、日本の軍事的な動きに関する見通しをこう述べている。
「独ソ戦に伴い、日本は北進か南進か迫られることになるが、おそらく対米戦争をおそれて南進は回避される見通しである」
また、極東部次長のアダムスが同25日に提出した意見書にはこんな主張がある。
「日本はウラジオストクを狙い、南進することはあるまい。長期的に見て不利益となる日本のソ連攻撃は、消極的な方法もしくは積極的な方法いずれかによって阻止されるべきである」
アメリカは日本が戦争を恐れて南進しないであろうと予測し、日本は日本で南進がアメリカの強硬政策を招くことはなかろうと踏んで仏印軍事進出に踏み切った。
「日本の南部仏印侵略は、南西太平洋に全面的な攻撃を行う前の最後の布告だと思われる。日米交渉のさ中にこういうことをしたのだから、交渉も継続する基礎はなくなった」(ハル)
これ以降の日米交渉は、ただひたすら時をかせぐための“あやし戦術”により、日本側が米国に翻弄される方向で推移していく。時期が熟するのを待ち、日本側が立たざるを得なくなった状況を作り上げて最後通牒の『ハルノート』へと進むのである。
参考:
『真珠湾までの経緯』石川信吾
『真珠湾までの365日』実松譲
『滞日十年』ジョセフ・グルー
『ハル回顧録』コーデル・ハル
『大東亜戦争史』服部卓四郎
『米国に使してー日米交渉の回顧』野村吉三郎
『大本営機密日誌』種村佐孝