科学が信用に値するのは、科学が「確実な答え」を教えてくれるからではなく、「現時点における最良の答え」を教えてくれるからである〜すごい物理学講義
カルロ・ロヴェッリの『すごい物理学講義』をやっと読了。
流れとしては『すごい物理学入門』からでよかったです。この二冊を経た(四苦八苦しながらも)今なら『時間は存在しない』も、もうちょっとは読めるかもしれない。
本書は2014年に刊行され、その年に「メルク・セローノ文学賞」と「ガリレオ文学賞」という2つの賞を受賞しているとか。
どちらも「文学賞」なんですね。
科学の魅力を広く一般に伝えることを目的にした賞だそうで、実際に読んでみると納得です。
物理学といういわゆる理系の内容でありながら、その筆致はとても詩的、文学的であり、そこがわたしのような門外漢だったり初学者以前の者でもなんとか(それでもそれなりに楽しみながら)読むことができた大きな理由だと強く感じます。たとえば、
科学と芸術はわたしたちに、世界にまつわるなにか新しいことを教え、世界を見るための新しい目を与えてくれる。わたしたちはそうやって、世界の厚みを、深さを、美しさを理解する。偉大な物理とは、偉大な音楽のようなものである。それは心に直接に語りかけ、事物の本質に備わる美しさや、深さや、単純さに目を向けるよう、わたしたちを誘ってくる。
といったように。
本書の構成は
第1章 基礎物理学の鍵となる概念の発展経過について
第2章 20世紀の物理学による偉大な発見について
第3章および第4章 量子重力理論の世界像について
「古代ギリシャの偉大な発見」として、ミレトスのアナクシマンドロスからはじまり、レウキッポス、デモクリトス、プラトン、アリストテレスらを起点として基礎物理学の概念の発展の経過を語ってくれるのはすでに詳しい人からすると回り道かもしれないけれど、わたしのような者には導入部としてとても親切。このへんのセンス、さじ加減も先述のような賞を受賞するのに影響したことと思います。
例によって例のごとく、本書の内容をすべて理解したわけはないので、個人的にとても印象に残った(驚愕し、納得した)部分をいくつか引用しておきます。
電子は、つねに存在しているわけではない。電子が存在するのは、何かと相互作用を与えあっているときだけである。
電子とは、ある相互作用から別の相互作用への跳躍の総体である。
ある対象がもつ「あらゆる」性質は、ほかの対象と比較したときにのみ存在する。自然界で起こる出来事はすべて、関係性という観点からのみ描写される。
複数の物理的な「系」のあいだの関係を抜きにしては、現実は存在しない。事物が関係を選びとるのではなく、関係が「事物」という概念に根拠を与えている。
本当に無限なものがあるとしたら、それはわたしたちの無知だけである。
関係、相互(作用)という言葉が頻出します。
そして、それこそが存在を生じさせているということを。
これは釈迦の縁起を想起せざるをえません。
(関係性によって存在が生じる)
2,500年以上も前に知っていた(悟って)。
以下の部分は「境界を立てる」ことがエントロピーや抽象度を想起させます。(間違ってたら突っ込んでください。あくまでも「恣意的」なイメージなので)
波や山は、世界をより容易に語れるようにするために、わたしたちが考え出した世界の分割の仕方である。波や山の境界は、恣意的かつ慣習的に、わたしたちの都合によって決定される。境界を立てることで、わたしたちは情報を整理する。波や山は、わたしたちが所有している情報の一形態である。
一見、なんの関わりもなさそうな物理(学)の世界と東洋思想(釈迦の教え、仏教哲学)が結びついて、専門用語等の理解には及ばなくとも、手触りと臨場感をもってその「世界」を立ち昇らせてくれます。
これ以上引用するときりがなく、引用ばかりになってしまうので最後にひとつだけ。(身近なこと、例の感染症騒ぎ等に引き寄せてその意味を考えてみるのもいいでしょう)
科学とは謙虚な営みである。科学に取り組む人間は、自らの直観に盲従しない。まわりの全員が言っていることに盲従しない。父母の世代や、祖父母の世代が積み上げてきた知に盲従しない。「自分はすでに事物の本質を知っている」とか、「事物の本質はすでに本に書かれている」とか、「事物の本質は部族の年長者に守られている」とか考えているかぎり、わたしたちは何も学べない。
素敵すぎます。
わたしはこれからこの分野を学んでいこうとする立場ではありませんが、著者のこうした姿勢を土台にしたセンス、思いやりに敬意を表しつつファンになってしまいました。(お姿もいかす、かっこいい)
科学が信用に値するのは、科学が「確実な答え」を教えてくれるからではなく、「現時点における最良の答え」を教えてくれるからである。