マンのハードルが高いなら、まずはエロス三部作を読めばいいじゃない〜トーマス・マン 『ヴェネツィアに死す』
「エロス三部作」から始めるトーマス・マン(この呼称は翻訳家の岸 美光氏による恣意的なものだそう)。
なぜこの三作からというと、トーマス・マンが敬遠されがちというか、ハードルが高く感じられる様々な面がかなり軽減されていること。
短編や中編であったり(マンは難解なうえに長編がスタンダードだったりするので)
ストーリー自体はきわめてシンプルでわかりやすかったり(140文字でいけるくらい)
エロスをテーマにしていることから(それが著者の意図した本質的なものかはともかく)いい意味で俗っぽく読みやすいというあたりは、とっつきやすさに貢献している。
とはいえ、難解さがないわけでは「もちろん」ない。
それはそれとして「注意深く」読んだほうが、より作品世界を堪能できるし、理解にも近づけるだろう(それが、こうした作品を「苦労してまで」読むことのへの「果実」なのだから)。
個人的には多用される「複文」による構成。ひとつのセンテンスがやけに長いのが(冗長ではなく)難解、とっつきにくさに多大な「貢献」をしているのかなと。
情景描写とか、現実的な流れを語るとかならともかく、観念的だったり形而上的な内容でそれをやられると、あっさりと「なんじゃこりゃ」状態に。
もちろん、マンはそれを意図的に(嬉々として)やっているわけだけれども
正直なところ、わたくし的にはこれら(エロス三部作)ですら、しっかりと丁寧に読み込めたかと問われれば
否(いな)。
かといって、では無意味であったのかと問われれば、これまた
否。
こうした「難解」とも評されがちな古典文学を読むメリットというか、意味、意義は
抽象度をたかめてくれるという面がでかい。
書かれている(翻訳されているし)言葉はわかる。
でも、なにを言っているのかわからない。
こういう本というか文章を読むことは、どのくらいそれを理解したかということよりも、そういったものに触れることにこそ意義があったりもする。
そういう意味でも難解、ハードルが高いと敬遠するばかりでなく、だからこそと開き直って、トライしていくとよい。
哲学を学ぶのと同じ。
現代に生きる(わたくしも含め)多くのひとたちは、あまりにも便利、簡易、コンヴィニエントなコンテンツを求めすぎる。
逆説的だけれど、文学に限らず「古典」的なもの(ようするに息が長くいきのびている)は、だからこそ(すぐに活用、利用できるような即興的な利便性はむしろ低い)こうして生きのび、価値を日増しに増していっているのだろう。