見える人にしか見えない〜「具体⇔抽象」トレーニング
抽象度という言葉がありますが、その意味を正確に理解している人は多くないようです。(私が正しく理解しているかはさておき)
それ以前に具体と抽象ということについても。(抽象の対は具象ですが、一般的によくいわれるのは具体なので、以降「具体」ですすめます)
理解をさまたげるもののひとつは、抽象度をあげれば、抽象化を推し進めればとにかく良いという誤解。
抽象度という唯一絶対の物差しがあり、その目盛りが高ければ高いほど良いとするものです。
これは抽象度、抽象化に限りませんが、ユニークな(一意の)物差しは存在しません。
文脈や目的(時と場合)によって適切な物差し、抽象(度・化)があるということです。
ここをただ「抽象度が高いほどいい、優れている」「抽象化すればするほどいい」と誤解してしまうと、実際には機能しない(役に立たない)思考法やコミュニケーションに陥ってしまいます。
具体が劣っていて抽象が優れているという単純なことではなく、どちらも目的、状況に応じて行き来できる柔軟さが必要だということです。
本書の著者は
抽象化というのは、何かと何かの間に関係性を見つけることである
と説きつつ、その関係性が希薄になって抽象化能力が低下することへ警鐘を鳴らしています。
例えば新聞がネット記事に置き換えられていくというのは、それまであった新聞全体の構成がバラバラになって個別の記事となって存在するために、それらの関係性が希薄になっていくということでもあります。
新聞が例として適切かは微妙ですが、インターネット上に氾濫する断片化した(具体)情報ばかりに触れていると、枝葉は見えていても木全体や森が見えない視野狭窄にも陥ります。
スマートフォンを使っての極めて断片的なネット記事の「読書」は、抽象概念を扱う能力を確実に奪っていくことになるでしょう。このことの行きつく先は「AIが指示することをひたすらこなすだけの人間」になります。
SNSなどでよく見かけるコミュニケーション不全にも「具体 vs 抽象」が見られます。依って立つ場所が違うのだから対立するのは当たり前、そしてお互いがそのことに気づかない限り、コミュニケーションは成立しません。
抽象は「都合の良いように切り取る」ことで幹だけを残すわけですから、具体に重きをおく人からすれば「いや、こんな葉っぱも、こんな枝もある」と反論しても対立するだけで何も進まず解決になりません。(逆もまた然り)
抽象レベルの「幹」のメッセージを出したい人は、「極論で言い切る」という手法をとります。ところがそれを見た具体派の人たちは、切り捨てられた枝葉が気になって仕方ありません。そこで「こんな葉っぱもこんな枝もある」と反論するわけです
自分が見えている抽象の(具体の)世界のものを、他の人も同じように見えているという誤解が生むコミュニケーション不全。(NLPでいうところの優位感覚も同様に)
どちらが優れている、劣っているとうことではなく、状況や目的に応じてその階層を行き来できることが本来の「抽象思考」ができる人だということです。
そして、上から(抽象から)下(具体)は見えますが、その逆はないので(具体は五感でリアルに感じられますが、抽象の世界は見える人にしか見えないので)機能する抽象思考をするには抽象度をあげてものごとを捉えられる必要があります。
一読して「なるほど」とすぐに実用とはいきませんが、少なくとも具体と抽象の意味、関係性を知ることで抽象化能力(問題解決能力につながる)を高めるきっかけにはなると思います。
具体 vs 抽象の不毛な例はないかなと思っていたら、ついさっきわかりやすいものを見かけました。(某SNSでのやりとり)
ある人が
小学生の娘が「5Gは身体に悪いんでしょ?先生が言ってた」って言ってきました。これは学校にクレームですよね?
回答者がこれに応えて
ですねえ。だったら電車も乗れないし電子レンジも使えない。そもそも紫外線も電磁波だから表にでるなと。
この場合、5G(枝葉)が具体(抽象度が低い)で、電磁波(幹)が抽象(抽象度が高い)でしょう。噛み合っていない。
回答している人は鬼の首でもとったかのように得意のようですが、自分の階層に引き寄せて(枝葉をばっさり切り落として)いるだけ。
意識すると、こういった不毛な対立に気づけるようになり、少しでも建設的、前向きな思考やコミュニケーションが図れるようになるのではないでしょうか。