昭和きもの愛好会インタビュー6・染色作家・岩井雅実さん
長い間掲載をしたくてなかなかできなかった、岩井雅実氏のインタビューです。理由はいろいろありますが、何よりこの方、引き出しが多すぎて何回もお会いしないと実像がつかめないと思ったのが最大の理由です。
この度、初めて一貫したライフヒストリーを把握できたのでご紹介します。
1 染色作家を志すも音楽の方向へ
まずは実家の家業を継ぐことが最初でした。その時は18歳で父親が「何をしてもええけど、あかんかったときのために手に職をつけておけ」というので、アルバイトとしてろうけつ染作家さんのところで半年働きました。
その後は喫茶店のアルバイト、音楽バーに勤めたりと、岩井氏の言葉を借りれば「適当な青春時代」を過ごしました。しかしあるとき、「自分には何もない」ことに気づきます。
2 再び染色の道へ、そして工場勤務
「地固め」の気持ちで母方の祖父の染色工房へ弟子入りします。当時は業界が華やかで染色作家の組合がありました。その青年部に入り、同世代の人と出会ってから、この仕事を面白いと思うようになりました。すごい技法を持っていると思った人には頭を下げ、教えてもらう日々が続きました。性格として向いているのか、世話役を任されたりもしました。
そのうち、業界そのものが細くなってきます。独立してもとてもやっていけないという判断で、プリント工場に勤務します。その工場は室内が40度を超える職場で、炎天下の35度でも外に出ると涼しいと感じました。ここも仲間がいて楽しいと思いましたが、ここも職場が傾き始めました。5年間勤務しました。
3 販売の仕事もし、友禅を教える
そのうち、前の組合の先輩が誘ってくれた工房に移る機会がありました。販売の仕事もするのですが、原価を知りつつ高い値段で売ることがストレスで、工場勤務の時は何ともなかった血圧が上がったりしました。しかし大手の小売チェーン店が倒産し、工房も運営が苦しくなりました。その時、ある和装の会社が友禅を教える人を探していたので、教材を作ったり、教える仕事もしました。この会社も最終的には倒産しましたが、6年半給料をもらうことができました。
そのうち、以前かかわった工房のオーナーが亡くなり、ブランドを継ぐ仕事がきました。これもいつかは役立つだろうと実家に工房を作っていたのが幸いし、すぐに仕事を始められたのです。
4 歌とのかかわり
岩井氏は染色作家の傍ら、ライブハウスなどで「歌う人」として有名です。歌を始めたのは、フォークブームの頃にさかのぼります。友人にギターを借りて弾いてみると、「俺ってなかなかいけるやん!」と思ったそうです。しかしギターや歌が上手いことと、プロになるのはまた違います。最初は「音楽で食べていけたら楽だろうなあ」と思ったそうですが、なかなかそれでは生計がたてられません。趣味として歌うことはずっと続けてきました。オリジナルの曲もあります。
「僕は日記をかきませんが、日記の代わりがオリジナルソングです」と岩井氏は言います。筆者が一度聞かせていただいた、工場勤務のときの歌もその一つだったようです。
最後に岩井氏からメッセージをいただきました。
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〜ローケツ友禅染めの作品も 音楽でのオリジナルソングも それぞれ先人の作品、自然界の題材、人としての生活、関わる様々な人たちへの感謝や愛情 そんなものが、私に「作品」を作らせてくれます。 そんなモノ作りの「仕事」を一生かけて、やっていければ こんな幸せなことは有りません。 平和万歳〜 戦争反対〜
似内惠子(一般社団法人昭和きもの愛好会理事)
(この原稿の著作権は昭和きもの愛好会に属します。無断転載を禁じます)
【参考】一般社団法人昭和きもの愛好会 youyubeチャンネルに岩井さんのインタビューをアップしております。
似内惠子(一般社団法人昭和きもの愛好会理事)
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