昭和きもの愛好会
「こんなものがでてきたよ」と昭和 きもの愛好会 理事長の松前章子が私にこのような手帳を見せてくれました。 実家の片付けでいろいろなものが出てきた時です。 その中でも この手帳は 「これ何?」と思わず言ってしまうようなものでした 。理事長の母上のものです。当時 家具などを購入した時に付録としてこの手帳がついてきたということです。 1 手帳の中身は さて、この手帳の中身はどうなっているのでしょうか?結婚の準備で用意するものなど記録をするための上であったそうです。 いろいろな
先の原稿で紹介した、昭和30年から50年までの婚礼支度、地域の差はありますが、共通して入っているものを、一つのセット(仮に長崎モデルとして)を中心に考えたいと思います。今回は「何が入っているの?」がテーマです。 1 デフォルトで黒喪服 まず 注目したいのが礼装 特に喪服の多さです 。全体の30%を占めていると言っても過言ではないぐらいです。 喪服の種類は女物の 冬用 夏用長襦袢の白のもの その他です 。昭和30年から50年代にかけては喪服が葬儀用の着物の主体でした。特に自
昭和40年代と思われる婚礼の着物を見る機会がありました。あまり着物は好きでなかった持ち主なのでしょうか、桐の箪笥にたとう紙に入ったままの状態で、数は約120着です。この内容を分析しつつ、当時の着物販売の動向も分析したいと思います。 1ミッションとしての婚礼着物準備 昭和40年代といえば、着物生産や流通が非常に盛んだった時期です。この時期の嫁入り着物のセットは、データとしても非常に参考になります 。1970年は大阪万国博覧会開催の年で、この時は一番着物がピークであったと関係
十日町市とは 十日町市は新潟県にある山あいの静かな町です。JR長岡駅から車を走らせること 約50分で到着します。 古くから 織物の町として有名でした。最初に麻織物、次いで縮まない「明石縮」の産地としてして名を馳せました。 加えて十日町が着物の一大産地として、更に有名になったのは 太平洋戦争後です。 織り染め いずれにも対応できる、京都に匹敵する大生産地として日本の着物生産の歴史上、大きな役割を果たしました。 この十日町の今はどうなっているのか、また着物の大産地として大
京都新聞には半年間連載した「あのころの着物」の記事に加筆したものです。撮影場所には苦労しました。幸いモデルさんには苦労しませんでした。 絞りの羽織は奥様たちの憧れ 最近は絞りの羽織を着る方が少なくなりましたが、 昭和40年 50年は絞りの羽織の全盛期でした 。 絞りが流行して、しかも一般の方々の手にはいる価格になったのは、日本だけではなく 中国 韓国に絞りの技術を伝え 製造を発注したからです。この発注はききとり調査によるとかなり早い時期に始まっていました。 それは職人
谷崎潤一郎がモスリンと銘仙を主衣装していた 谷崎純一郎全集で、面白い一文を見つけました。タイトルは「縮緬とメリンス 」で、大正十一年七月號「婦人公論」に掲載されたものです。婦人公論の編集者からの依頼で書いたもののようです。古い漢字と仮名遣いなので、筆者が解説を付けています。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本の女子の着物、殊(こと)に晴着が不經済(経済)極まるのであることは今更私の呶々どどを要する迄もない。で、私は戍るべく若い婦人たちに縮紬を拾ててメリンスを用ふること
約15年前、映画の衣装提供をさせていただいたのは、大変貴重な経験でした、マイナーな映画とはいえ、スクリーンで役者さんがコレクションした着物で演技をされるのです。その中には、故人となられた大杉漣氏も含まれます。時代も大正時代ということで、時代にあった衣装を提供できたのは良い経験です。映画名は「百合子出すヴィダーニャ」です。この映画は、浜野佐知さんという女性の監督が政策されたもので、ロシア文学者の湯浅和子の人生の一部を映画にしています。 1 湯浅良子というロシア文学者 湯浅芳
「昭和っぽさって何だろう?」と考えます。 答えは意外なところにありました。筆者は数年間着物の通販にかかわっていたことがあります。当時の一番の売れ筋は、着物と帯をコーデしたセットでした。帯締めや帯揚げもセットなので、利用される方には便利だったようです。その画像をもとに、「昭和のきこなし」を再現してみます。 1 昭和の着物と帯の特徴 当時、通販で掲載していた画像をいくつかご紹介します。着付けを担当してくださった方々も、昭和生まれなので本筋を外すことがなかったと思います。商品は
1 意図して集めたものではない夏着物と帯 筆者の夏帯コレクション、意図的に集めた訳ではありませんが、絵柄や手法に面白いものが多数集まっています。その多くは著書「夏着物の文様とその見方」でご紹介しておりますが、一部をここで御覧いただき、その面白さを味わっていただこうと思います。 夏着物を着る人が少ない>>形見分けなどでもらったが使わない>>それなら保存会に寄贈しよう そんな経緯でコレクションが増えていったような感があります。そのうちの何点かは、夏に使用された時の汗じみなどで展
ビーズバッグに取り入れられた日本刺繍の技術 東南アジアのビーズ刺繍と比較して、日本のビーズ刺繍、特にビーズバッグで用いられた技法は、立体的であり、変化に富み、平面を埋めるという作業をはるかに越えた立体的な美しさがあります。 ビーズバッグの制作にあたったのが、日本刺繍の技術を持つ職人たちであったため、日本刺繍の技術がそのまま持ち込まれています。 その技法とは、まず「肉入れ」です。日本刺繍では立体感を出すため、本縫いの前に木綿糸などで地縫いをし、その上に刺繍を加えてゆきます。
理事長から送られてきた画像を見て、「え、これは昭和の婦人雑誌のコピーではない?」と思いました。2023年6月現在、学生さん2名が研修に来てこられますが、そのついでに理事長が着物を着せたのです。 帯も昭和期のもので、よくあっていますね。 バックグラウンド情報をご存じなく、この原稿をお読みのかたに、私共は昭和期の着物を蒐集、保存する団体です。昭和といっても、主に太平洋戦争以降の着物を中心に研究しております。 ここで着用していただいた着物、2点とも織の着物です。向かって右の方の
「なぜ、これが、ここにあるのか?」 は、大阪みんぱくの「世界のビーズ展」に、所蔵のビーズバッグを貸し出した際、池谷和信教授からご指摘のあったことです。すぐに回答ができないまま、ビーズバッグの蒐集と調査を続けて参りました。 「和のビーズと鑑賞知識」刊行の際、知り合った職人さんは2名のみでしたが、大久保先生のご尽力もあり、「日本刺繍工房紅会」(くれないかい)でビーズ制作にかかわった職人さんの調査もできました。 調査にあたり気づいたことは、やはり「昭和」という時代がビーズバッグを
銘仙について、ファッション面からの記述はおおいのですが、その由来などの解説がすくないので、総論を書いてみました。 1 銘仙の由来 銘仙は、絹を素材とした先染の平織物の総称であるが、同じ絹織物でも丹前地、黄八丈とは区別して呼称された。語源は天明時代(17 8 1~1 7 8 8)に、経糸の数が多く、その織地の目の細かさから「目千」「目専」と言われたのが訛化して、「めいせん」になったという説がある。そのふるさとは関東地方に位置する伊勢崎、秩父、桐生、足利、飯能などで、これら
京都新聞の連載原稿からの抜粋です。 2018年頃から約3年間、京都新聞で「なつかしのきもの」というシリーズを連載しました。このシリーズのうち、「京都編」は京都の周辺でロケをしています。 その際の画像とメイキングの記録です。 1 「猟銃」ストーリー この回でテーマにしたのは、井上靖の作品「猟銃」です。猟銃というタイトルから予想されるような、ワイルドな内容ではく、恋愛をテーマにした小説です。 詩の同人雑誌に自己流の詩を掲載している「私」の所へ三杉穣介という全く面識の無い男性か
旭川市にある、「合同会社 優佳良織工房」を訪問させていただきました。こちらで代表の高嶋 良樹氏にお話を伺うことができました。 ここでスタッフの方々が製造と販売に携わっておられます。 ユーカラ織の素材は羊毛です。多くの色に染めた羊毛を使い、綴れ織や浮き織で、北海道の風景を描き出しています。作品のテーマは、ミズバショウやサンゴソウ、流氷や雪と、地域の特色を活かしたものがほとんどです。アイヌの伝統工芸を除けば、北海道の染織の歴史は本州のものと比べて歴史が浅いものですが、このユー
1 なぜ暑い季節に着物を着るのか? 夏の一番暑い時期に、全身を覆い、かつ二重に帯を締めて出かけるのはかなり決意が必要です。着物好きでも「夏の着物は着ないんです」という方もおられます。いくら単の着物とはいえ、下にも長襦袢を着るので、一層の暑さであることは否定しません。汗も染みだしてきます。古い夏帯の多くが使い物にならないのは、汗の染みが広がっているせいです。 ではなぜこんな時期に着物をきるのか?と聞かれれば、私なりの答えは「涼しいからではなく、涼しげな演出が素晴らしいから」で