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昭和の婚礼支度・その1(誰が・なぜ・何処で?)
昭和40年代と思われる婚礼の着物を見る機会がありました。あまり着物は好きでなかった持ち主なのでしょうか、桐の箪笥にたとう紙に入ったままの状態で、数は約120着です。この内容を分析しつつ、当時の着物販売の動向も分析したいと思います。
1ミッションとしての婚礼着物準備
昭和40年代といえば、着物生産や流通が非常に盛んだった時期です。この時期の嫁入り着物のセットは、データとしても非常に参考になります 。1970年は大阪万国博覧会開催の年で、この時は一番着物がピークであったと関係者の方はおっしゃいます 。
こうした時期に揃えられた花嫁衣裳の着物一式を見ることは、大変意味があります。どのような内容でどのようなものを買っていたかということが非常に意味があるのです。
若い方で当時の婚礼風習をご存知のない方にご説明いたしますと、 昭和30年から50年頃までは婚礼に際して 色々な 着物を用意して持っていくのが普通のことでした。着物の幅は礼装から普段着までに及びます。もちろん太平洋戦争以前も 、婚礼の場合は大変な量の着物を持って行って嫁入り 支度をしたものです。 この時はまだ 古い風習が残っている地域があり、「嫁の持ってきた着物を箪笥ごと 訪問者に見せる」という ところもありました 。
嫁の実家では嫁ぎ先に恥をかかせないように、ともかく 何でも良いから 箪笥にいっぱい詰めて送り出したものです。ちなみに、このように 婚礼時にたくさんの費用がかかるので結婚前から親や 本人が 貯金をするのは普通のことでした 。それは 「もし これから着物などが買えない場合に先に用意しといてやろう」という 親のありがたい考えでもありました 。もしこれが 洋服であれば 流行 もあり サイズが変わったりすることもあるのですが 着物に関しては それがありません。30年 40年先まで見据えてタンスにたくさん詰めて送り出すというのが当時の傾向でありました。
誰が箪笥の中身を決めるのか?
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そこで問題になるのは「誰がこのタンスの中身を作るのか」ということです。
今回 着物が包まれていたたとう紙も調べましたが、 ほぼ一軒の呉服店 が荷物作りを担当しています。加えて 2から4軒の 別の呉服店のものもありましたが 、1軒の服屋がほとんどのの着物を引き受けて、箪笥の中身を作っている様子が見られました。
今でこそ 呉服店は儲からないと言われていますが、 当時は場合によって非常な利益を出すことができたようです 。
その場合というのが まずは婚礼です 。資産のある家庭に出入りしている呉服店にとっては、婚礼は千載一遇のチャンスです。
今回調査した 婚礼の着物からもそうした様子が伺われました 。まずは ミッションとして「数をたくさん用意する」ということがあります。派手で売れ残っていたもの 不良在庫なども少し安めにして出せばば数のうちになるのです。値切られる可能性が低いのも、婚礼支度のメリットです。
これほどありがたい ビジネスがあるでしょうか。
ということで 昭和30年から50年頃までの婚礼 ビジネスというのはかなり大きなマーケットであったことが伺われます。
3 地域差も大事な要素
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地域差が 婚礼衣装 調査で大切であるという理由は、日本全国でみたとき、非常にお金をかける場所とそうでない場所があるからです。
また同じ地域でも、時期によって こうした贅沢な 支度をやめようという動きが強く出た時もあり、婚礼支度を質素なものにするという家庭もあったようです。
そうした要素を加味して調査をしていかなければなりません 。
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今回の着物の一式については、写真にありますように 九州 それも 長崎 佐賀 中心で作られた衣装のようです。 大変にカラフルで赤系が多いのが九州の衣装 全体で見られることですが、それがこのセットにも反映しています。 また 他地域では見られない 久留米絣 などの 木綿紬の着物が3着ありました。 逆に 関西地方で同じ時期に婚礼着物に入っている 銘仙が全くなかったことも驚くべきこと です。 十日町の紬については 反物 1点 ・着物 2着・お召し が1着ありました。
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詳細については 次の報告で詳しくお伝えしたいと思います。
似内惠子(一般社団法人昭和きもの愛好会理事)
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