小説 ケア・ドリフト⑫
それから数日経って、彼は転職のことなど、目の前の仕事に追われてすっかり忘れてしまっていた。数日前の熱狂が嘘のように、冷めきった様子で淡々と仕事にあたっていた。入居者の食事、入浴、排泄の世話をし、そこにやりがいを感じる日々。いやそこに「やりがいのある仕事」というキラキラしたシールを張り付けておかないと、緊張の糸が切れてしまいそうなのである。
結衣とも会えない日々が続いていた。ラインを送りあうことはあったけども、それだけでは物足りなくなっていた。丹野も話したいことがあり、結衣も字面を見る限り、いろいろ言いたいことがあるらしかった。
“マー君のお嫁さんになるんだから・・・”
そのフレーズが頭の中をグルグルと回っていた。
「結衣が俺の妻になるのか」
そう呟くと、自室の白い天井をじっと見つめ、ぼんやりと考えていた。
「介護の仕事はやりがいがある。それに今更、他の仕事をするのは想像ができない。でも結衣は、介護業界は給料が安いし、体も壊しやすいから、転職を勧めてくる。俺はどうしたらいいんだろう」
やはり彼にはあの名刺が必要なのかもしれない。しかし、その在り処も分からぬままだった。そうやって悶々と過ごすのは、丹野にとって辛いことでもあった。一人でいる部屋は広く感じられた。スマホから着信音が鳴ったのは、丹野がベッドの上でぼんやりとしているときだった。
「もしもし」
電話越しの結衣の声は何となく泣いているようにも聞こえた。彼は待ちきれないのを悟られないように、深呼吸をしてから
「おう、結衣か。お疲れさま」
と返事をした。久しぶりに結衣の声を聞けて、嬉しさに飛び上がりたくなるのを抑えるのに必死だった。
「久しぶり、会いたかった」
「俺もだ。寂しくて死ぬんじゃないかと思うくらい」
丹野の言う冗談にも、彼女は
「何言ってるの、ウサギじゃないんだから」
と返してくれた。滅多に冗談を言わない丹野が言う戯言に、付き合ってくれる。そんな多幸感に浸る丹野に結衣は続ける。
「あの・・・明日、仕事かな?」
「明日は遅番だから、仕事終わるのは九時過ぎ、家に帰るのは一〇時前かな」
「それでもいいの。明日、大事な話があるから、予定空けといてくれる?」
大事な話、どんな話だろうと思いつつも、結衣との会話に浮かれていた丹野には「大事な話」の内容は二の次になってしまうのであった。電話はそれで切れてしまった。すぐ電話を切ってしまったことは気がかりだったが、深い考察などなされることなく、丹野は部屋の掃除を始めた。明日、部屋に結衣を呼んでもいいように、である。
鼻歌を歌いながら部屋の片付けを終えると、もう日を跨いでいた。真夜中で、車の通りもほとんどなくなっていた。そんな静寂が漂う部屋の片隅で、丹野は右の親指と人差し指で名刺をつまんでいた。数日前に必死になって探した、あの名刺だ。ベッドの下の、しかも奥の方に埃を被りながら孤独に耐えていた。付いた埃を落として、きれいになった名刺は何かの宝物のように、丹野には思えた。
「今すぐには転職とか考えられないけど、何かのために残しておこう」
彼はこう言い聞かせた。しかし実際は、今村の転職話、会社で起こった事件、青嶋の転落ぶり、何より結衣が転職を勧めてくること。これらが丹野に襲い掛かり、彼の心を揺り動かしていた。
結衣が部屋にやってきたのは一〇時を過ぎてからのことだった。珍しく車を運転して家まで来たのである。丹野の住むアパートには客人用の駐車場はなく、以前、空いているスペースに結衣の車を停めたら、管理会社に注意されてしまった。そのようなことがあって以来、丹野の部屋を結衣が訪れる際には、丹野が迎えに行くようにしていたのである。今回も、迎えを買って出たのだが、「疲れているだろうし、自分で行くから」とやんわり、断られてしまった。
「夜だし、階段の横に止めたら、問題ないんじゃない?」
と丹野も渋々OKを出した。
「ごめんね、遅くに押しかけちゃって」
Tシャツにハーフパンツというラフな格好の結衣は両手を合わせながら玄関に入り、夏用のスリッポンを脱いだ。
「いいんだ。とにかく中に入ってよ」
丹野がそのように言うのを待たずに、結衣はいつものように部屋に入っていく。そこには、一片の陰も感じられない。どうして、電話に出た時に泣いているように感じたのだろうと、丹野はふと思い返した。それでも、彼がそのことを気に留めたのはほんの一瞬のことでしかなかった。
「結衣はお酒飲めないけど、つまみは用意しといたよ。何食べる?」
「ありがとう。けど、今日はいい。食べてきたから。マー君は食べないの?」
「俺もいいや。食欲なくてな、つまみ程度でいいんだ」
そう言うと、丹野はテーブルの上のビーフジャーキーの袋を開け、冷蔵庫から持ってきた缶ビールのプルタブを上げようとした。その時、結衣が
「ちょっとお酒飲むの後にしてくれる。今から大事な話をするから」
と まるでこの世の終わりのような顔をして話した。プルタブから指を離した丹野は我に返ったかのように、
「ああ、分かった」
と答えるしかなかった。この時、ほぼ初めてというくらいに、結衣に対して不安な感情を抱いた。
「この娘は何を話そうとしているのだろうか?」
一旦、彼の中で芽生えた不安は一気に体中に広がっていった。
結衣が思い詰めた表情を浮かべたのは、丹野の不安が高まり始めた頃だった。
「ねえ、マー君は私と結婚したいって思う?」
丹野の表情が曇る。そして、語気を強めて言った。
「それは結婚したいと思ってるよ。その気持ちはずっと変わらずに持っているから」
「そしたら、結婚して二人で生活していって、子どもが生まれるとして、どのくらいお金がかかるか想像できる?」
結衣の表情は真剣そのものだ。そして、迫力をもっている。
「・・・それは、正直言って想像できない。ただ貯金をしなきゃとは思ってる」
「はっきり言うね。それじゃ、遅いの。本気で結婚したいって思うなら、もう動き始めなきゃいけない。それにタバコだって止めてないし、転職も考えてないし。貯金したいって思う人がそんなレベルのこともできてないで、どうするの?」
徐々に結衣の顔が赤らんでいるのが、見て取れた。それを見る丹野も徐々に紅潮し始めている。
「それなら聞くけど、結衣は何をしてきたんだよ?それが見えないのに何をしろって言うんだよ。訳わかんねえ」
「私だって散々結婚したいって言ってきたじゃない。直接言うなんてよっぽどだよ。正直言って、そんなこと言わせないでよって感じだった」
興奮の度を増してきた結衣は口調もきつくなってきている。外では、コオロギだろうか、夏の虫がじりじりと音を立てて鳴き始めた。虫の音が鬱陶しく聞こえる。
「何が言いたいか分かる?」
更なる結衣の問いかけに、丹野は戸惑うばかりだ。
「どう言うことなんだ?いまいち、話が見えない」
結衣は溜息をつき、
「分かった、はっきりと言わないと分からないみたいね。まあ、昔からそうなんだけど」
と呟いた。部屋に流れる音は時計の秒針が動く音と虫の鳴き声だけである。雰囲気の重苦しさに、丹野はタバコを吸いたくなった。しばらく、タバコを吸う気にならなかった彼としては意外なことだった。ただ、話の流れからすると、タバコは我慢しなければならないだろう。
「しばらく、距離を置きたい。その間にあなたとの関係について、もう一度考え直したい」
丹野は驚きをもって結衣の言葉を捉えた。しかし、そこから発される感情は全面に出るものではなかった。
「えっ、そうなの!それは辛いなあ」
「辛いって、私だって辛いんだから!でも、これはしなきゃいけないの、大事なことなの!あなたも一緒に考えて」
結衣が熱くなっていくのを見るたびに、丹野は冷静に、と言うよりかは、冷めた気持ちになっていくのを感じていた。
「分かった、考える。で、何を考えたらいい?」
そう言った瞬間、結衣は卓を強く叩いて、
「そんなの自分で考えてよ!」
と吐き捨てるように叫び、立ち上がると、玄関ドアを叩くように開けて、そのまま出て行ってしまった。
つづく
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