外国人に生け花を(10):無我の生け花 b
自我と無我
前回、自我の表現としての川柳的な生け花と無我の表現を目指す俳句的な生け花があるのではないかと書きました。
これはなかなか難しい話で、あまり共感してもらえないかもしれません。生け花とは楽しいものですから、楽しく実践していければそれで十分という方も多いと思います。
ところが、いい生け花とは何だろう?もっといい作品は作れないか、どうしたらもっと上手に指導できるのだろう?などということを延々と考え続けてしまうという人も稀にあるのです。
以下の話は説明不足の点が多いのですが、とりあえずひとつの見取り図として書いてみます。将来、もっと分かりやすく書き直せたらと思います。
無我の生け花へ
自我の生け花と無我の生け花とは別物です。
では、両者の関係はどうなっているのでしょう?初めから無我の生け花を作れる方というのは(稀にあるでしょうが)考えにくいですから、通常は、個人の上達の過程で、自我の生け花を作る段階から無我の生け花を作れる段階へと上達していくのだろうと考えられます。
「綺麗でしょう?」「斬新でしょう?」などという作者の意図あるいは自己承認欲求ばかりが目立つ、自我の生け花が溢れる現状を見るにつけ、無我の生け花を作れる段階というのはなかなか到達できないレベルなのではないかと思われます。
しかし、無我の生け花こそ山根翠堂の言う「華道としての生け花」の目指すものです。それこそが本物であると主張することで、華道を外れた生け花、偽物、あるいは自我の生け花も存在するということを認めることになりますが。
私が自我/無我という区別を提案しているのに対し、山根翠堂は名著「花に生きる人たちへ」(中央公論美術出版)の中で、小我/大我という区別を設けています。言わんとする内容はほぼ同じことです。
「『いけ花』の作者(花を挿す人)は己を空しくして(概念的な固定した考え方を捨て)他(花の枝ぶりや葉の着き方などで示されている神の愛や仏の慈悲の心ー宇宙にみなぎる大愛の精神、生命の源泉ー)を自由に容れることによって、かえって自在に一切の境地を転ずることができるのであります。このように小我を捨て、大我に生きることによってのみ真の「いけ花」はできるのであります。」
大我即ち無我ということです。
(山根のこのコメントが戦後の前衛生け花に言及した後で述べられているのではないか、と考えられる点はとても興味深いのですが、ここでは深入りしません。よければ私の小論をご参照下さい。)
守破離
芸道の上達過程については、守破離という段階を想定して説明されることがよくあります。いろいろな定義がありますが、デジタル大辞泉では次のように説明しています。
「剣道や茶道などで、修業における段階を示したもの。
「守」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。
「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。
「離」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。」
生け花におけるひとつの考え方は、自由型を到達目標と設定すれば、次のようなことになるでしょう。
守:基本型を習得していく段階。
破:基本型を壊していく段階。作品の主題を深めていく、あるいは素材の本質を追求しいく過程で基本型を逸脱していくのです。自由型の初期段階。
離:自由型の習得、創作。基本型の視覚上のデザインからは自由になりながら、そのより抽象的な原理は適用されていることが多い。
このような段階を想定すると、破の段階までが自我の表現としての生け花ということになります。
そして、離の段階で無我の表現が可能になるのです。次回は、その意味するところをもう少し掘り下げてみます。