外国人に生け花を(11):無我の生け花 c
無我の生け花とは?
無我の表現としての生け花は、視覚上の制限からも離れているはずです。表層的で、装飾的な美しさなどは問題でなくなります。
生け花表現の到達点は自然の理想形だという意見を読んだことがあります。反対はしません。古典的な立華などその典型かもしれません。
ただその説明は、眼前に現れているもの、見えているものを偏重する解釈が生じる傾向があり、必ずしも最適ではないと思います。
本質的なのは、作品に迫ってくるもの、あるいは生命力、大自然の声の凝縮があるかどうか。
目に見える意匠などではなく、抽象的なデザイン原理などでもなく、もちろん作品の大小などとも関係なく、それらを超えた大自然の生命力、聖性が人の力で直に感じられるように作れられているかどうか。そこにみなぎる気、あるいは詩性は、視覚上のデザインだけを模倣した偽物の自我の生け花には存在しません。
つまり、「古池や」の俳句が持っている大自然のひとつのあり方、悠久あるいは本質に直に触れさせてくれるか、それだけが真の生け花か否かの基準です。
それは感性の問題であり、無我の表現を意識の次元で解釈したり、分析しようとすることは、なかなか難しいことになります。
無我と日本文化
この無我への志向は、実は日本文化のあらゆるところに見られます。その根本にあるのは神道的な態度かもしれません。私はまだ神職初心者ですから見当違いかもれませんが。
神殿、お札、御神体など、さまざまな礼拝の対象がありますが、おそらくそこに神性が存するのかどうかを初めから問題するということは、本来ないのだと思います。
ただ、そこに神性が宿ると仮定したらどうなるのか。どういう態度、言葉遣い、所作をとるか、それを共同で精錬させていくと、対象に神性が顕現してくるということを発見したのが神道の起源ではないかと思います。
日本人の自然観
また、自然に対しても太古の(おそらくは縄文時代)日本人は、同様の態度で(時間をかけて技術や経験を精錬し、集約することで)生命、あるいは神性を感受できるということに気づいたのだと思います。
深い瞑想を伴う、その精神性において、神道、生け花、日本の芸術が繋がってくるのだと思います。
日本文化の根源を禅に結びつける議論は多々ありますが、より根本的なのは神道的な態度、あるいはその精神性です。汎神論的などと類型化されることもありますが、そこには独特なものがあります。レヴィ=ストロースが見出した日本文化の特殊性も、そのあたりに関わってきます。
もしかすると、汎神論だからこそ無我の生け花を作り得る、と言うことも言えるのかもしれません。あらゆる自然素材に神性を見い出していこうという態度が根本にあるのでしょうから。
「自然即ち客体、資源」とする考え方に染まった方には生け花の自然観はなかなか分かりにくいはずです。素材としての花材の表層に囚われる自我の生け花に留まり続け、そこを超えていけないのは、そうした近代資本主義的な自然観に絡め取られているからではないでしょうか。
生け花を本当に修得するためには、即ち、無我の生け花を作るためには、日本的な自然観を深く理解し、瞑想し、感性を研ぎ澄ます修練が必要になってくるのです。
とは言え、この修練、日本人にとっては、普通の稽古事のこと。特殊な状況でない限り、さほど意識しなくても、生け花三昧の経験は持てるようになるでしょうし、やがては無我の生け花を作れるようにもなるでしょう。
しかし、外国人の多くにとっては(全てにとって、ではないでしょうが)、自然に到達できる境地ではないようです。そのため、外国人相手にいけ花を指導する者は、このシリーズで書き続けてきた通り、様々な苦労をすることになるのです。