リテラシーが、分かつもの・つなぐもの ~「知ること」と「在ること」~ への備忘録


 
リテラシーとは
Literacy とは「文字の読み書き能力」「識字能力」あるいは単に「識字」のことである。
近代の初等学校は、大衆にリテラシーを習得させることを目的のひとつにしている(と思われている)。
リテラシーは、「知ること」(対象知識の習得)と「在ること」(自己の存在)を切り離すことによって、知の体系の構築を容易にしたといえる。科学技術の発展の基礎には、リテラシーの獲得がある。
 
書くこと
手習いの伝統を引き継ぐ19世紀日本の小学校は、書くこと=作文といえば、範例文の模写や視写を意味していた。子どもの日常や生活上の出来事を書かせる、という考えはなかったといえよう。
おそらく、師範学校出の教員が大多数を占めるようになり、子ども自身のことを素材に作文を書かせてみようと思いついた教員がいたはずである。
それは、今にして思えば全然特別なことではないが、当時非常に斬新なことだったにちがいない。
なぜなら、リテラシーを基盤にして学校で教える内容は、子どもの日常や生活とは丸っきり異なる知識や技能であると考えられていたからである。
 
学校知の無力さ
子どもの日常や生活のことを作文に書かせるようになると、子どもの生活の世界や現実が教員に見えてくるようになる。教員の中には、その子どもの現実を少しでも改善してやりたいと考える者も出てくる。また、学校で教えていることが、全く子どもたちが生きることには役に立ってないことに、愕然とする教員も出てくる。
すると、もともと書くことの指導のために取り扱ったにすぎない子どもの日常や生活だったのが、逆転して、子どもの日常や生活を少しでもよくするために、作文に取り組ませるという教育実践が生まれてくる。
これが生活綴方運動である。今では生徒指導という意味と変わらなくなってしまった「生活指導」の言葉もこのあたりから使われるようになった言葉である。
 
生活綴方の真髄
生活綴方の実践は、子どもが「在ること」と子どもが「知ること」とをつなげようとする試みだったといえる。
この生活綴方によく似た実践が、1950年代から60年代にかけてパウロ・フレイレがブラジルで行った成人識字運動である。フレイレにとってリテラシーとは、文字が指し示す現実を読み解き、認識することであり、自己が置かれている不合理で不平等で抑圧的な現実を乗り越えるためにはどうしたらよいか考える力とイコールであった。ブラジルから追放されたフレイレであったが、その識字手法はユネスコの支援を受け、瞬く間に第三世界に広がっていった。
 
リテラシーから無縁だった人類
ここ200年ばかりを除けば、人類(新人)は、ほぼ15万年の間リテラシーとは無縁の世界を生き抜いてきた。リテラシーが大衆化した今日においても、乳幼児はこちらの世界を生きている。
重要なことは、リテラシーと無縁な人々においては、「知ること」(知識の習得)と「在ること」(自己の存在)とは切り離されていないということである。
誕生間もない乳児の知覚や感覚はほぼ未分化の状態といえる。また自己と世界との区別も未分化で、五感や身体をフルに稼働して徐々に対象を嗅ぎ分け、知覚や感覚を分化させ研ぎ澄ませて、自己と世界を分け、関係づけていく。
乳幼児は探索行動とセンス・オブ・ワンダーの循環の世界を生きながら、未分化だった自己と世界を分けていく。ここでは「知ること」と「在ること」は別のことがらではない。表裏一体である。
 
「知ること」と「在ること」の分離
リテラシーによって構築される客観的な知とその体系は、両者を分割した上に成り立っている。
机に向かって一様に着席し、一斉に鉛筆を走らせる一斉授業は、まさにこの「知ること」と「在ること」の分離を象徴している。「けじめ」をつけるとは、「知ること」と「在ること」を切り離して分けろ、という意味である。
 
「同調性」と「従順な身体」
一斉授業を可能にしたのは、「同調性」の発見と、それを最大限に活用した「従順な身体」の創出である。模倣を基にした同調性は、生物的な生存戦略のひとつでもあり、乳幼児において特徴的である。これを発見し利用し、訓練を重ねることによって「従順な身体」を創り出すことに成功する。
この2つがなければ、日本的な一斉授業は、うまくいかなかったであろう。
 
教育課程(学習指導要領)のねじれ
リテラシーを基盤に構築されている近代学校のカリキュラムは、「知ること」から「在ること」を切り捨て、後者の知をスコープとシークエンスでクロス体系化したものである。ところが、近年、その方針を書き込んでいる学習指導要領に「学んだことを実生活に生かす」「日常生活の中から課題を見つける」といった記述が繰り返し出てくるようになる。両者の分離を大前提に置きながら、ふたたび結び付けなさいというねじれた論法が登場して久しい。
 
イディス・コッブ「イマジネーションの生態学~子ども時代の自然との詩的交換」1977(邦訳・新思索社2012)
乳幼児の探索行動を、イディス・コッブは「イマジネーションによる世界づくり」とよび、子どもが「見るもの、聞くもの、触るものに、その瞬間に(そのものに)なる=become」行動であり、「なることは、世界づくりである」という。
コッブは、このような子どもの「イマジネーションによる世界づくり」の十分な経験が、大人になってからの創造性や個性の基盤になると指摘する。だとすると、「知ること」と「在ること」が統合された子どもの世界づくりと、両者を切り離す一斉授業とリテラシーによる世界認識の方法との間には、一種の越えがたい隔たりが存在していると言えるだろう。
 
今井悠介「体験格差~連鎖するもうひとつの貧困」現代新書2024.4
「知ること」と「在ること」が統合されている「イマジネーションによる世界づくり」の体験が、今「体験格差」となって急速に拡大してきていることを警告した書物である。
「イマジネーションによる世界づくり」の体験が不足していても、教室では「従順な身体」としてふるまうのが通常なので、体験格差は表には出てこない。70年代までは、放課後の時空が、学校の時空をはるかに凌ぐウェイトを占めていて、「イマジネーションによる世界づくり」は十分に担保されていたと言えるだろう。
 
小塩海平「花粉症と人類」岩波新書2021
小塩によれば「花粉症」とは、「自然に対する行き過ぎた働きかけの結果、生態系がバランスを崩し、ある特定の植物が、場合によっては国境を越えて優先的に繁茂し、自然と人類との良好な関係が損なわれるに至っ」た結果であるという。19世紀イギリスの「牧草花粉症」、アメリカの「ブタクサ花粉症」、そして20世紀日本の「スギ花粉症」である。要するに、人間の都合(生産的効率)によって単一の植物を広範囲・大量に拡げてしまったことによって、生物の多様性と生態系が壊され、その影響のひとつとして「花粉症」が生じているということである。
 
近代学校における「花粉症」
近代初等学校は、リテラシーの大衆化のために一斉授業はじめ、同調性、従順な身体など単一で一様な事態を最大限に活用してきた。リテラシーの習得は、「在ること」から「知ること」を切り離し、後者を肥大化させ、教員の心の中に巨大に聳える評価システムを構築した。「花粉症」のような事態は、もしかするとすでに起こっているという可能性を我々は考えてしかるべきである。「在ること」から「知ること」を切り離し、専ら後者を追い求めてきた暗黙知を反照しなければならない。

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