【「道徳」批判4】 「道徳」は人間を尊重しない
「ヘレンと共に ーアニー・サリバンー」には「サリバン」と呼ばれる人物が出てくる。しかし、この人物は言葉をなかなか教えない。怪しい。
「おまえ、本当はサリバン先生ではないな。」
サリバン先生なら、ヘレン・ケラーにがんがん言葉を教えているはずである。直ぐに仕事を始めているはずである。この「サリバン」は怪しい。
警戒しながら、読む。
すると、疑わしい部分が見つかる。
アニーは、このとき〔手術で視力を取り戻した時〕、目が見えるということがどんなにありがたく、また、すばらしいことか、よく分かりました。そして、この喜びと感謝の気持ちは、大きくなったら、目の不自由な人たちのために役に立ちたいという決意に変わっていきました。
(「ヘレンと共に ーアニー・サリバンー」『わたしたちの道徳 小学校5・6年』文部科学省、22ページ)
サリバンが「目の不自由な人たちのために役に立ちたい」と「決意」したというのである。障害者教育を志したというのである。
非常に疑わしい。
サリバン先生は気合いの入った人物である。到着して直ぐ言葉を教える仕事人である。その気合いの入った人物が「人たちのために役に立ちたい」という「決意」をするだろうか。むしろ、「人のため? 仕事だからやっているだけよ」と言いそうなハードボイルドな人物なのだ。
また、「決意」して努力するというのは「道徳」にありがちな話である。都合よく話を「捏造」しているのではないか。
なにしろ、事実を大切にしない「道徳」である。全ての文が疑わしい「道徳」教材である。
サリバン先生を謎の人物にしてしまう「道徳」である。「やさしいお母さん」にしてしまう「道徳」である。
本当にサリバンは「目の不自由な人たちのために役に立ちたい」と「決意」したのか。サリバンは「決意」などしていないのではないか。
伝記を確認しよう。伝記には次のようにある。
アニーは自分では、人を教えることなどまっぴらだと思っていた。アニーは人生を十二分に味わいたいと思った。パーキンズ〔盲学校〕の教師たちが面白くもない教科を苦心して教えて、さっぱり効果をあげていないのを見てきたからである。一生、教室に埋もれ、生徒を教えて毎日を送るなんてまっぴらだった。
(J・P・ラッシュ『愛と光への旅』新潮社、32~33ページ)
サリバンが「決意」した事実はない。障害者教育を志した事実はない。むしろ、反対である。「人を教えることなどまっぴらだと思っていた」のである。教師になるなど「まっぴら」だったのだ。
だから、次の部分も事実ではない。
それからのアニーは、夢中になって勉強しました。目や耳の不自由な人に教える指話法や点字、読唇術なども一生懸命に学びました。
(「ヘレンと共に ーアニー・サリバンー」『わたしたちの道徳 小学校5・6年』文部科学省、22ページ)
「決意」していないのだから、当然、その「決意」を前提とした努力もしていない。
障害者教育を志し努力するアニー・サリバン像は事実ではない。それは「捏造」である。
アニー・サリバンは実在の人物である。
実在の人物の「決意」を「捏造」してしまう。「大きくなったら、目の不自由な人たちのために役に立ちたい」と「決意」したと「捏造」してしまう。「決意」に基づき努力したと「捏造」してしまう。本人とはかけ離れたサリバン像を「捏造」しまう。
これはサリバンにとって迷惑なことだろう。「道徳」はサリバンを尊重していない。
「道徳」は人間を尊重しない。
「道徳」とは誠に不道徳なものである。
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