神さまの食事 おせち料理 #12
新年が明けた。明けましておめでとうございます。
江戸懐石近茶流(えどかいせききんさりゅう)をお稽古し始めてから、おせち料理は母に代わり私が手作りをしている。その少し前から母の脚が悪化し、長時間の台所仕事が難しくなっていた。引っ越す前は一軒家のダイニングルームに親戚が集まることもあったため、2年連続料理屋におせちを注文したのだが、それが嫌になる程余ったので、両親がマンション暮らしを始めたのを機に、家で作ったものだけで三段重を埋めることとし、規模を縮小したことが理由でもあった。
注文したおせちは、高級な素材をふんだんに使ったもので、大きな伊勢海老も入っており、どっしりと重い二段重だった。しかしいくら良い素材で一流の職人が作ったものでも、数日前に仕込まれたおせち料理は確実に味が落ちていた。
十数年前心が弱ったとき、自分でご飯を作って食べる、ということだけは一生懸命にしていた。その時に気づいたことだが、大抵の料理は腐っていくよりずっと早くそのおいしさを失っていく。きっとその中に宿る「気」が失われるスピードの方が、腐っていくよりもずっと速いのだ。
野菜は採れたての方が美味しい。採れたては「大地の気」を含み持っているからなのではないか。調理されれば火による気が入り、人に触れられて人の気も入る。「気」はすごく繊細で、お皿に盛られてた瞬間から猛スピードで無くなっていく。「気」がピークのときに食べるのが一番美味しいし、体にも良く、その食べ物に携わった人の気持ちで心が満たされる。
おせちの話に戻るが、そもそもおせち料理とは、年一度、正月に訪れる歳神(実りの神)に捧げる供物だ。そのお下がりを私たちが食す直会(なおらい)の料理である。新しい年に訪れた神と共に食べる(神人共食・しんじんきょうしょく)、祭りの後の饗宴の料理、それがおせち料理だ。祭りといえば派手な印象ばかりがあるが、正月を迎える=歳神を迎える というのはいわば祭りの一丁目一番地なのである。
家の歳神を迎える食事だから、豪華でなくても家で作ったものを捧げてはどうか。普段のお料理の、野菜の切り方に少し気を遣ったり、ちょっとだけ良い素材を使う、それだけで十分なのである。
あまり知られてはいないが、戦前までおせち料理は豪華なものではなかった。戦後、経済が神様のようになり、私達の生活は経済に支配されてしまった。そして家の歳神を迎える行事までも、デパートの格好の餌食になったのだ。
おせち料理はいつしか、人間様が食べるものになってしまい、その意味を失いつつある。このままではデパートが作った文化によって、おせち料理の文化そのものが失われてしまうかもしれない、とさえ思う。
手作りは大変と思われているおせち料理、初めて全てを自分で作った時、呆気に取られるほど簡単に終わってしまった。
伊達巻は、料理教室の友人たちと集まって二週間ほど前に作り冷蔵庫に入れておいたものだし、黒豆はお料理上手の父の従姉からもらったものだ。以前は栗きんとんを母方の叔母が作った物を分けてもらい、私の五万米(ごまめ)をあげたりしたこともあった。筑前煮は大晦日に野菜を切っておいて、元旦の朝に作ったもの。あっという間に調理できるし、そのできたての美味しいこと!
元旦の夜、三段のお重は一つにまとめてもまだスペースが余ったため、コンテナに移し替えてすっきりと無くなった。いつまでも食べなければならない高級なおせちから、すぐになくなるこぢんまりしたおせちへ。そんな運動を孤軍奮闘、私だけでこのブログから発信していきたい。
歳神様とのひと時、どうぞゆっくりとお過ごしください。
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