行ったことも、見たこともない、それを知ってしまったこと。---『新聞記者』---
アメリカのジャーナリスト、ウォルター・リップマンは言った。
事物を視覚化し、人に伝える力を持つメディアとして
「映画」はまだ最前線にある。
私たちは実感している通り、メディアなしでは世界を知ることが出来ない。
2022年1月13日。
ついこの間、Netflixシリーズ『新聞記者』が配信開始された。映画『新聞記者』とは違って、就活生の役が追加されている。どうなるんだろう。
昨日見始めて、今2話目。やっぱり面白い!
今回は、映画『新聞記者』(2019年)を観て、思ったことを言葉にしたい。
ネタバレなし!
(冒頭でもすでにしたけど)アメリカのジャーナリストでメディアについて論じたウォルター・リップマンの言葉をいくつか引用してる。
あらすじ
まるで映画の内容がノンフィクションであるかのようなキャッチコピーだ。
エンタテイメントと謳われているが、「現在進行形の問題」を扱うとも。
「内閣情報調査室」って怖いところ?
本作では真実を全て明かそうと動くのが「新聞記者」、
真実を操作し、都合の良いものにしようとするのが
「内閣情報調査室」や「官僚」だ。
映画で描かれる「内閣情報調査室」は、暗い部屋でパソコンの光が列になっている。(目悪くなるし、疲れそう笑)
そこでは、SNSを利用して、世論を動かそうとする「情報操作」が行われている。国民に知られたくない情報を隠すために、あらゆる手を使う。ツイートを使って、メディアを使って。
また映画に出てくる事件は「大学の誘致」や「官僚の自殺」など、フィクションでありながら、現実と映画の境目がわからなくなるようなリアリティを持つ。
それぞれの正義と、それにより作り出された事実が発信され、拡散されていく様子は、今を生きる私たちにとって決して他人事と思える内容ではない。
実際に、肉眼でみたことのないものを映像で見るとなれば、
それは私たちの中で確実に真実性の高いものとして認識される。
私にとって「身近ではない」内閣情報調査室と「聞き覚えのある」事件や実際に利用している「SNS」が一つのスクリーン上に混在したときに、
「これは単なるフィクションだ」、「現実とは違う世界だ」
と本当に割り切ることができただろうか。
正直に言うと、
私は政府が嫌になった。政治も嫌になった。怖いと思った。
ここでいう風景は、
映画のなかで描かれる「政治」であり、
政治に全く関心がない人がネットニュースで「政治家の不祥事」に目が止まる。
その人はエンターテイメントとして政治にまつわる映画を見ていた。
その映画の内容がニュースの内容と少し似ているとすれば、その人の「政治」に対するイメージはより「映画」の世界に近いものになるのではないだろうか。
特に政治という分野に関しては、多くの人は有権者としてしか経験することがない。実際に議論に参加することもなければ、記者として政治家と話したり、自分の目や耳で現実を探ることはない。
ある人は、映画で見た「事実」を「現実」とし、その世界に矛盾のないニュースばかりを見て、意見を言うだろう。またある人は、既に持っていた政府に対する批判的価値観を強化してしまうだろう。
この映画は危険って言いたいわけじゃない
この映画を批判したいわけじゃない。
映画ってこんなにも、私の考えに影響を与えてるんだということ。
この映画のテーマが「ジャーナリスト」や「情報化社会」であるとすれば、
世論がフェイクニュースや噂、デマによって日々変わっていくことに対する危機感を感じることはできるだろう。
劇中の「誰よりも自分を信じ疑え」と言う言葉。
これこそが映画が伝えたいことではないだろうか。
映画は、娯楽として楽しむものであるからこそ、その影響力を理解しなければ、私は知らないうちに現実を見誤ってしまうだろう。
あくまでエンターテイメントで、フィクションだという前提で
この映画が伝えたいことを、私なりに考えたい。
映画『新聞記者』は、私にこのことを強く意識させてくれた映画だった。
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