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「思い通りにいかない」ことに囚われず、忍耐の時期を過ごす

思い通りにならないこと。誰しもがそれぞれの状況の中で、体験することだと思います。「思い通りにならない」というキーワードをよく使うようになったのは、仏教思想に目を向け始めた2017年ごろのことです。トランジションの本を一緒に書かせて頂いた松本紹圭さんや『仏教思想のゼロポイント』の本を読んだことがきっかけでした。

その言葉は「ドゥッカ」という言葉に由来していて「空しい、不満、不安定、苦しい」などの意味を持っています。いわゆる仏教世界の方々が志向しているのは、ドゥッカの滅尽。つまり、”ドゥッカではない”境地に至ることです。私の見聞きする仏教世界の方々の間に流通するポピュラーな解釈が「思い通りにならない」というもので、私もそれを採用させてもらっています。

『仏教思想のゼロポイント』の中で、「ドゥッカ」つまり「思い通りにいかせようとすること」を「コントロール(固定化)」という言葉で表現しているのが印象的でした。全ての物事が移り変わるという世界認識を前提にすれば、何事も変わるのですから、「コントロール(固定化)」という行為には無理があります。資本主義社会にはわりとコントロール志向性の高い現場も多いですが、そこから脱出しようと試みていた頃の私にとっては、なかなかスパイシーな発見でした。それ以来、私は、物事をコントロール(固定化)する術ではなく、流れを調整する術を模索していこうと思うようになりました。(何かしようということを全てやめるべきという意味ではなく、調整することができそうなこととできないことを峻別し、できることに尽力するという意味で流れの調整と言っています)

そこから5年以上経ち、この数年は仏教の文献にもそれほど当たることなく、体験的に学ぶということを何よりも大事にしてきたのですが、久しぶりに仏教の発想を借りてみようと思いました。私の頭の中に最近浮かんでいる言葉は「忍耐」です。

ここ最近、生活がなかなか思い通りになっていません。ここ1年、一枚布をつくるアート作品に手を加え続けていますが、たくさん時間をかけることができる日もあれば、ほんの30分くらいしか時間を捻出できない時もあります。できれば作りたい時に気ままに作り、作りたくない時に作らず、というふうにできたら良いのですけどね。創作と生活のバランスの調整を試みながら、思い通りの手間・暇・時間を作品にかけてあげることができず、難しさを感じる場面が時々起こります。

必要なのは「制作する時間」になります。ここ数年、衣食住のご縁を巡らせてもらい、生きてみるということを試してきましたが、宗教者の装いを借りて全国を歩いたり、空揚げを揚げるということに重心が置かれていた時には、いわゆる制作する(揚げる)時間と衣食住の確保というものが連動していました。しかし、空揚げという活動を手放し、全国を歩くことをひと段落させた後の世界を生きるようになり、さらには一枚布のアート作品制作を行うことに重心を置くようになってから話が変わってきました。ライフスタイルの変化が起こり、以前と比べると衣食住のご縁を賜ることが減りました。もともとは、巡礼の生活や空揚げの活動以後、もう少しスムーズに応援して下さる方々が現れると思っていましたし、感覚的にはこれらを踏まえてアート活動が展開しやすくなると思っていたのですが、なかなか思い通りにいかないものですね。ただ、一枚布のアート作品制作は脳内で体験している分にはめちゃくちゃ重要なものだと思っていますし、簡単にはやめません。作品が生まれてくることに責任を持ちたい気持ちです。それが現実世界に生まれてくるためにも、なんとかしなければ、、、!と動いています。

一枚布のアート作品という"未来に起こってほしい期待”がよく発生している感じです。ただ、期待が生じてしまうことは思い通りにならなさ(ドゥッカ)に直結することだと思いながらも、生じてくるものはいったん受け入れようと思っています。このようなあり方になってきたのは、さまざまな瞑想の実践の影響を受けているように思います。思念や観念が浮かんでは流れてゆく。それらが生じてきてはダメだ、抑えなきゃ、消さなきゃ、というよりも、起こっているなぁ、と思う感じです。生まれてきたがっているものは、自ずと形を伴い生まれてきてしまいます。私にとっての一枚布の制作作業は生まれてきてしまうものに抵抗しない実践でもあって、それほど大変で仕方ないものではありません。

ただ、一枚布のアート作品が生まれてきてしまう、生まれてくることを享受させてもらえるということは嬉しいことなのですが、同時にそれが生まれてくる状況がよく起こります。困難、苦難、災難。現象に名前はありませんので、起こることはその時々でさまざまですが、思い通りにならなさを適切に表現してくれる出来事が日々起こります。今書き並べてみて、「難」という言葉がよく含まれているので、この記事では、なんとなく「大変だぜ、こりゃ」というものを「難」と呼んでいこうと思います。

さて、アート作品づくりと生きる糧を獲得するという経済の模索のバランスの中で「忍耐」という言葉がよく浮かんでくるようになりました。似たような言葉で「我慢」という言葉があります。

仏教の文脈では「我慢」はこのような意味を持ちます。

我慢というと一般的には「忍耐」や「辛抱」という意味で使われることが多いですが、仏教で我慢というと「私は〇〇しているのに」「あの人は〇〇だから」と自分と他人を比較して自分を高く、他人を下に見たり、「私はこれだけ〇〇しているのだから」と見返りを求める驕りの心として七慢という心を苦しめる煩悩の一つとされています。

思っていた意味合いと少し違うかもしれません。
最初知った時には、私も驚きました。

私も「これだけ〇〇しているのだから」という思考にハマったり、「自分がやっている活動は素晴らしいんだ!」という思い込みを持ってしまって、「あちゃー(笑)」という状態によくなっていることに気づきました。生きるって、ヒリヒリしますね。

体感的に、「我を強める働き」と「我を弱める働き」があるように感じています。アートは作家性という概念と強固に相互発展してきた背景があるので、制作することが「我を強める」作用に転じてしまうことが多いです。こちらの方は”強固”なアプローチだと思っています。コントロール志向性が高まる方向性の働きです。

私が模索するようになったのは、「我を弱める働き」の方です。我を解体する創作、我が結果的に解体されていってしまう創造行為があるのだろうなぁと思っています。

私らしさ、アイデンティティ、作家性、私の◯◯(作品)。「我を強める働き」が自分の中で優勢になったことを感知した時には、いったん身体をほぐしてリセットすることが増えました。お気に入りはヨガをすることです。できれば、身体がほぐれながらも安定して立ち・座る姿勢を身に付けたいところなのですが、そこまではまだ体得することができていません。道のりは長そうです。

話を少し、我慢と忍耐に戻します。私にとって我慢は「我を強める働き」で、忍耐の方は「我を弱める働き」だと思っています。特に一番苦戦している経済において、思い通りにならない「難」がよく起こります。この「難」にどう対応していくか。

外的な貢献やお役立ちに時間を使うと、労働ー対価の流れにおいては即時的な対価のお金が入ってきます。それだけでなく、対価を前提とせず何かをさせて頂くことが発生することもあります。お金が入ってくると、物やサービスを購入することにお金を使うことができて、制作の時間を確保することができます。しかし、制作の方にひたすら身を投じるとお金が無くなっていきますので、生きる糧の調達の方に時間を割かざるを得なくなり、また制作を離れることになります。このジレンマの中でなんとか制作の動きを止めないようにしているのが今のあり方ですね。

時々働きながら制作の時間を確保しつつ、創作活動により集中しやすい環境構築を進めるべく、自分の周りの経済構造自体を変化させていけたらと思います。こうしてみようというアイデアは少しばかりありますが、それが成り立っていくのかはやってみないとわかりません。

経済のあれこれを模索している中で、さまざまな「難」が起こると、ついつい「我慢」が発生しそうです。これを「忍耐」に変換していくには、創作と経済のバランス自体を模索していくことをいかに楽しんでいくか?に焦点を当て続けようと思います。一枚布が世界中で展示されているビジョンという期待に執着せず、それでいて、諦めず、プロセス全てを楽しんでいく。それがいつも試されている感じがします。ただ、重要なのは「難」を引き受けていくことだと感じています。できればやりたくないことや得意ではないことを「やらざるを得ない(と思い込んでいる)」時に、「やるか」と踏み切ります。

思い込んでいるというふうに書いたのは、常に別の選択肢が存在するからです。ただ、自分自身の視野と技術の拙さから他の選択肢を描くことができず、これをせざるを得ないという流れになることがあります。その時に、「やりたくないのに、、、」と思っていると、うまく感覚が流れていかないんですよね。

一方で、「やらざるを得ないことを、いかに楽しくやっていくか?」というふうに考えると、流れていく感じがします。そこから楽しくするための試行錯誤が始まるわけですけど、そもそも私が「難」を感じやすいのは、他人が作ったシステムの中でいかに楽しむのか?というふうに試行錯誤する時です。

単発のバイトなんかだと、自分で作ったシステムという感じでもないので、粛々とやるというふうになることが多いです。ただ、「いろんなシステムがあるな〜」「こういうシステムを作って遊ぼうかな〜」というふうに目の前の状況を発想の糧にしてしまうことによって、目の前の「難」を分解することもできます。

ただ、システム自体を作っている人間やそれを改変する力を単発の関わりでは持ちづらいので、いったんシステムに従いながら、ごっこ遊びとして行うに留めていますね。

だんだん書いているうちに、そもそも一枚布の制作をしようとしていることが「難」を作り出していることに気づきました。生きているだけでいいじゃないと思えば、何かを作ったから良いとか、作らないから悪いとか、そういうことに悩まされることはなくなりそうです。「難」が次々起こるからといって、まだ餓死するほど食べ物にアクセスできない状況にはなっていません。めちゃくちゃありがたいです。働くということも、自分自身の殻に閉じこもらず、他の方々が喜ぶ貢献ができることから「役に立てた感」の報酬を頂くことができることも嬉しいです。パートナーに貢献するのも、大切にしている人が大切にしていることを大事にしながら生きることをサポートすることは幸せなことだと思います。

こう考えると、「難」も捉えようで、その中に私が生きる糧が詰まっているように思えてきました。そこに糧を見出すことができるか否かは、自分の受け取り方次第になりそうです。「難」すらも感謝の対象にして、やっていけそうな気がしてきました。これにプラスして、一枚布の制作も少しずつ、少しずつ進めることができそうです。

いったん立ち止まってみると、私が一枚布の制作でやりたいことは全て、今・現在に達成されていることです。この世に生まれてきたことを祝福し、有り難くその事実を受け取っていくこと。生きていて大丈夫というメッセージを送り続けること。別に一枚布の制作で表現しなくても、私の中でそのメッセージを日々生きていけば良いんだな、と思うことができました。

「忍耐」という言葉がよく浮かんでいた2〜3ヶ月でしたが、被らなくても良い理不尽は避け、引き受けざるを得ない出来事は極力楽しむものに変換し、遊び心を轟々と燃やしていこうと思います。

多くの方々に力を与えて頂いていますので、なんとかやっていけると思います。さぁ、やっていきますよ!

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三浦祥敬(しょうけい)@アートプロジェクト・fuwatari
頂いたサポートは、生活と創作(本執筆)のために、ありがたく使わせて頂きます!