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アイデンティティがぶつ切りになりがちな流動性が高い世界をより良く漂流するには

ただ今、巡礼生活をしている。巡礼生活に入ってから100日が経った。

巡礼をするということ。各地の霊場に行ったり、寺社仏閣を訪ねたりする。さらには道端で祖先を祀る石碑や観音さん、お地蔵さんと思いがけず出会う。そこで私の場合は「般若心経」を唱えることが多い。予定していなかった場所に結果として訪ねることを考えると、巡礼は行うものであると同時に、生まれるものであると感じる。

さて、今日は漂流することについて考えていた。具体的な生活の中で漂流する傾向にあるのは、巡礼者や旅人だ。最近は多拠点生活の人たちも、よく移動をする人たちだろう。漂流民というのは、興味深い存在だ。(漂流するということはネガティブな意味で言っているわけではないので注意)

たしかにこの人たちは漂流している。ただ、もう少し違う目線で見た時に「漂流する生き方」はもっと多いのではないだろうか?そこにはアイデンティティの問題がつきまとう。

「一社で勤め上げる」という生き方が通用する自体ではない。次々と転職する人は多いだろうし、フリーランスや個人事業主として所属から自由になって働く人も増えている。生まれた土地から離れて、人が都市に流れていくという現象はまだまだ止まらない。多拠点生活やバンライフなど、移動型の生活の充実は目を見張るばかりだ。

さて、そんな中で致命的に生じていることは「アイデンティティを一貫させること」の難しさに多くの人が直面していることではないだろうか?以前であれば、1組織に所属していることが、「◯◯(所属先)のーーです」という簡易的な自己紹介を可能にした。ただ、それがしづらくなるにつれて、アイデンティティの説明が難しくなっていく。転じることの多い世界では、アイデンティティもぶつ切りになる。こうなると、人は「私はーー」という自己に一貫性を見い出そうとするか、もしくは自己を超えるものを求めるのではないだろうか。前者は自己に意味を見出し続ける苦しさとともに生きることに晒されて、後者は自分の人生を生きていない骨抜きの感覚に享じることになる可能性に晒される。

さて、このような状況をいかに生きるのか?という時に、私は巡礼的ふるまいを実生活にインストールし、過去、私たちの生活につながる、あれやこれやを生み出してきた先人の方々がいることを感じ直すことが、私たちが生きることに力を与えてくれるのではないかと思っている。この世をどう生きるか?という「この世」を捉える感覚の拡張につながるのではないだろうか。

身の回りの環境にすでに存在しているモニュメントや行きつけの聖地に訪ねてみるのもいい。

それだけじゃなく、長い時間感覚に浸ることができる自分の聖地を見つけておくのも素敵なことだ。(聖地は寺社仏閣だけではない、山や海、雄大な自然の中にも見い出すことができる)

アイデンティティがぶつ切りになって、自分の人生に何の意味があるんだ?と思った時こそ、深呼吸をして周りを見渡してみてほしい。

自然はうつろうのが常だ。私たちも自然であり、同じようにうつろう存在なのだとしたら、変わろうと思うとも思わずとも、変化している。一環したアイデンティティを持つことを志向するモードを時にオフにして、揺れ、流れるアイデンティティを手放す時間をとってみるのはいかがだろう。


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