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この一年、なぜ旅に出たのだろうか。そう振り返ることがある。その一つの理由は「名声を得る」ということへの執着から離れたいと思ったからだ。

この一年、全国を歩こうが歩くまいが、別に肩書きがもらえるわけでもなく、位が上がるわけではない。私は曹洞宗の流れの上で成立してきたお寺を営む家族のもとに生まれた。「修行に行け」とここ2年ほどでよく言われるようになったのだけど、その理由として「お寺を継ぐには修行に行かないといけない」という言葉といつもセットだった。それは資格を得るような発想だと思った。それに対してそんな理由で修行になんぞ行ってたまるか、という気持ちが生じた。昔から資格を取るということに対するモチベーションを感じたことがない。

これまで宗派を問わずいろんなお坊さんに会い、仏教に興味を向ける人たちを見てきた。その度に、「僧侶である」という社会的な肩書きがもたらす影響力というものがあると感じてきた。過去の連綿とした流れの中で、たくさんの僧侶の方々の尽力の末、衣を羽織ることには多少の力が生じる。現代社会において、僧侶の力は相対的に弱まっているだろうが、依然として僧侶が話をするのと、僧侶以外が話をするのとだと、受け取られ方は異なる。尊い話がされているというコンテクストが発生しやすい。

ある意味、「修行」という時期を経ることが「名を得る」ということにもつながりかねない。全くないとは言えきれない。

でも、出家をするってそういうことじゃないだろう、とも思う。名声を得るために出家をするとなると、それはもはや出家になっていない。本当に出家をする難しさを感じる。出家は「家を出る」こと。家とは、自分の作り出した自我の世界を抜け出ていくことだ。

そんな視点から自らを振り返ると、私は全国を歩くことで、自我の世界を抜け出したいと思ったのだけど、自我まみれだし、こんなご時世だからこそ巡礼の旅に出るということで、小さな小さな名声を得たいと思っていたことに気づく。まったく出家し切れていない自分に気づく。僧になるとは、なかなかに険しい道だと思った。

世俗とお寺。お寺は第二の世俗だ。聖俗で分けて、お寺は聖の場所だと認識している場合じゃない。むしろ、ドロドロの世俗であるということを意識しながら、その中で少しでも聖性を見出し続けないといけない。そういう意味で出家することは一回で完結しないことだと思う。何度も何度も脱皮するように、出家し続けるという精神的営みを続けていく他ない。


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三浦祥敬(しょうけい)@アートプロジェクト・fuwatari
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