どの文化圏にも居場所がないように感じた過去を、現在進行形の文化づくりに努めながら超えていく
私は、文化の言葉を掘り起こし、活動に生かしていくという癖を持っている。たとえば、今やっている活動には「うつろい」や「月待講」という言葉を拝借して使っている。これらは自分が作り出したわけではない。過去の誰かしらが名付けたものだ。それを拝借することは、自分と文化という流れとの関係性を作る行為だ。仕事だからそれをやるというよりも、もはや癖のように、行い続けるようになった。その拝借する源は、研究者の本であったり、現代の文化の取り組みだったり、インターネットの情報の海だったりする。どうしようもなく目を逸らすことができない言葉をみつけてしまった時に、次なる活動のアイデアとしてらそれが生かされていく。
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そんなことが癖になった背景には、お寺という出自、さらには都市で経験したテクノロジーやアートなどの様々な「新しい」ものが生まれ続ける現場に身を置いたことがある。そこでは文化というよりもカルチャーと表現されることが多かった。
なぜだか前者には過去から続いてきているものを引き受けていく感じがありつつも、何か新しいものが生まれていく時に感じる躍動感を抱きづらく、後者は過去と今を引きちぎり、地に足がつかない状態で未来のために今を生きるという気配を感じ続けた。
僕にとってはどちらも完全にしっくりこなかった。今の自分はというと、2つの世界の狭間に宙ぶらりんのまま漂っているという感覚だ。ただ、この宙ぶらりんになれるということが自分の特徴でもあり、僕なりの動的なバランスの取り方だ。
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ある文化とある文化の狭間にいると感じる時、人はアイデンティティにまつわる悩みを抱きやすいのだと思う。たとえば日本人とフランス人のハーフの子がいるとする。その子は日本人なのか、フランス人なのか。二分する必要なんてない。日本人であり、フランス人であると思う。そして、同時に、その人はその人でしかなく、◯◯人という枠組みに回収され切る必要があるという前提にそんなに意味はない。
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だから僕も、出自はお寺の文化、影響を受けた場所はたくさん、今手がける文化圏は仏教文化圏や伝統文化圏と一般社会の「あいだ」に流れを編んでいくという、狭間のアイデンティティを楽しんでいく。一つ信じていることは、マジョリティの声が大きな人たちが作り出す「圏」の中で息苦しさを感じても、別の圏で楽しんでいいし、世界には隙間がたくさんある。そして同時に思うのは、隙間は新しいものが生まれる場所でもあり、隙間を作り出す領域から流れを拝借しながら、そこに圧をかけて流れを生んでいくことができる。
僕は過去の有象無象にリスペクトを持ちつつ、過去から使われてきた名前を拝借しながら、少しでもより良い未来と今が生まれていくように尽力したい。
自分が楽しく在れる文化圏を関わりのある人たちと協力しながら作っていくのだ。
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