「うつろい」が日本文化の核心にある〜「うつろい」という切り口から、文化セクターの重要性を再考する〜
お寺の可能性が開けていく切り口の一つとして、「うつろい」というキーワードが大事だと思っています。そのうつろいというキーワードを扱い始めたのは、日本文化研究者の松岡正剛さんの本を読んだのがきっかけです。
本の名前は『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』です。
機械的な感覚を手放し、「うつろう」感覚を取り戻していく
「うつろい」が日本文化の核心にある、という文章が書いてありました。
一箇所目:日本文化の正体は必ずや「変化するもの」にあります。神谷仏にあるわけでも、和歌や国学にあるわけでもありません。神や仏が、和歌や国学が、常磐津や歌舞伎が、日本がや昭和歌謡が、セーラー服やアニメが「変化するところ」に、日本文化の正体があらわれるのです。それはたいてい「おもかげ」や「うつろい」を通してやってくる。
二箇所目:一方、「うつろい」という言葉は第六講「漂白と辺境」でも少し説明しておいたように、四季のように移ろい、花の色や朝晩の光や人の心のように変化していく「常ならぬ」さまをあらわします。古語は「うつろひ」で、「待ちし桜もうつろひにけり」(古今集)「おのづから御心うつろひて、こよなく思し慰むやうなるも」(源氏)などとつかう。したがって「うつろい」は「うつる」という変化を捉えた名詞です。その「うつる」には「移る」「映る」「写る」が含まれます。
このように「おもかげ」と「うつろい」は字義通りの意味を持っているのですが、私はこのことを人の感情や印象にとどめず、「日本という国」が面影を求めて移ろってきたというふうに捉えたのです。そしてそのプロセスにさまざまな日本文化が結晶してきたと捉えたのです。(P331)
私は、この「うつろい」に可能性を感じ、「うつろい」という言葉を掲げながら、イベントを作ったり、文章を書いたりしています。
「お寺自体が宗教の場である」という宗教のメタファーだと、この先お寺は厳しいなぁと感じています。むしろ「文化」という切り口から捉え直すことに意義があると思っています。
その視点を大事だと思い始めたのは、2019年5月くらいです。それはちょうど、「トランジション 何があっても生きていける方法」の出版イベントを実施したあたりです。
「仏教に学ぶ文化的トランジションのススメ」を神谷町・光明寺で実施します!
和菓子あり、日本酒あり、仏教思想の話あり! 仏教を通した心の磨き方と、仏教に学ぶ文化やコミュニティの作り方についての熱い話を聞くことができます。令和1発目の、仏教にまつわる主宰イベントとなります。
仏教と文化の相性が悪いということはまったくありません。たとえば室町時代には海外の文化を持ち帰ってきた禅僧の方々と能、お茶、俳句の方々の交流は豊かなもので、その結果、いまの伝統芸能と呼ばれるものが大成されていきました。もちろん生活という意味では誰もが文化と関わりがあります。
今回のイベント、共著者の松本紹圭さんはもちろんのこと、ファッションデザイナーの方、僧侶の方、経営者の方、社会起業家、アーティストの方など、いろんな側面から文化についての話が生まれること間違いなしです!
令和に込められている「美しい心が寄り集まって、文化が生まれていく」という意味を聞いた際、私は仏教思想が文化という切り口から活かされていく未来を直感しました。
すでにさまざまな文化的な取り組みが仏教界で生まれていますが、さらに活性化していくと思います。心が磨かれ、文化の火種が生じるイベントにぜひお越しください!
そして、そのあとの、イベントレポートがこちらです。
長時間労働の見直されたり、自分らしさを大切に生きていくことの重要性が説かれたり、社会の潮流が変わっていく中で、
「健やかに無理をしないことを継続していきながら、それを周りに分かち合っていく」というスタイルで物事を生み出していくことを志向する人が今後、ますます増えていくと思います。
それを推し進めていくヒントは、「文化」に、さらに、私が推す「うつろい」という言葉から見える世界にあると思います。文化の実践から学ぶ流れは加速していくでしょう。
資本主義の次を考えるビジネス界隈の方々や、健やかに満ち足りた感覚で生きていきたいという市井の方々に、そのエッセンスが求められていくと思います。
それに対して、お寺さん方、お坊さん方、仏教に関わりの深い方々が担うことができる役割はより大きなものになっていくはずです。
仏教文化に触れている中での強みは、そもそもの成り立ちが、「自然とのつながりを大切にしてきた」という点にあります。そういう思想および実践に触れることで、人が癒えていくという流れに貢献できるポテンシャルがあります。
さまざまな予測もつかない出来事が起こっていく世界の中で生きていく際に、「無常感」が大事になると思います。仏教語でいうと、所業無常。さらに、今現在の社会の潮流の中では、機械的世界観から脱却し、命を大事にしていくことが強調されるようになると思うのですが、「無常と心の情感」が重要になってくるでしょう。
先日のNoteの記事にこのようなことを書きました。無常と心の情感についての文章です。
諸行無常の響きと私たちの心
お坊さんのお話でもう一つ、なるほど、と思うことがありました。それはインドでの諸行無常と日本での諸行無常のニュアンスの違いについてです。
諸行無常という言葉は、「あらゆるものは移り変わる」ということを言い表した言葉です。お坊さんの小坂さん(妙心寺派・長慶院 副住職)は、インドと日本の間で、言葉に込められるニュアンスに違いを感じているとのことでした。
その違いとは、「心情が入るか否か」です。
インドの方は、結構、ニュートラルな意味合いとして「諸行無常」と語るようです。「あらゆるものは移り変わるよね」と。日本の方は、「あらゆるものは移り変わるよね(そこに風情がある / 心が動く)という心を伴うようなニュアンスが入ってくるのだとか。
日本は、奈良時代、平安時代から、和歌をはじめとして、自然について詠ったものがとっても多いですよね。そこに、自然を愛でる心というニュアンスが入ってくるのは必然的なことかなと思います。
Note: 夏の訪れ、夏の音連れ 〜7/11 うつろいの場を開きました〜
私がやっていることは、ポスト資本主義社会をよりよく生きる、自然と同期する身体感覚を養う活動であり、今後の人のあり方を模索することです。
人は経済活動を行うにあたり、目的を持って、目標を立てて、そのために活動することができますが、一方で、機械的になりきれない揺らぎが生まれる身体や情感を伴う心を持っています。それを取り戻していくことが、私たちにとって重要なことではないでしょうか。そのエッセンスの一端は文化セクターに埋まっています。
文化セクターの重要性
さらに、今後模索していきたいことは、「文化」をより良き形で、社会と出会わせていくことです。コレクティブインパクトの探究をされている佐藤淳さんが「文化セクター」の重要性についての記事を投稿されていました。
その中の文章を一つ引用します。
「文化は社会の接着剤です。コミュニティを結びつけてくれるものであり、常に進化し続ける世界で社会変革を行うには欠かせない役割を担っています」と、世界経済フォーラムのスペシャリストであり、カルチュラルリーダーでもある、リンダ・ピーターハンスは述べています。「カルチュラルリーダーのネットワークは、この声を世界経済フォーラムのより広範囲の検討事項に含めており、全てのステークホルダーに、よりレジリエントで包摂的な社会の構築に向けて、共感し創造的に考えてもらえるよう求めています」
「文化」「芸術」がよりよい形で、社会の中で価値として受け取ってもらえるようなコンテクスト(文脈)づくりをやっていきます。特に、お寺出身ということも活かして、お寺と社会の間に、そのような新たな文脈を作っていくような動き方をできたらと思います。
(ただし、「文化が社会のためにある」わけではないと思っています。バランス感覚を間違えると、「文化」がサービス化して、消費の構造に巻き取られてしまい、面白くなくなってしまうので、細心の注意を払いながらやっていきます。
その活動の切り口は、「うつろい」です。お楽しみに ^ ^
その後
うつろいの活動を順次、形にしていっています!夏、和ろうそくの光の揺らめきを眺めながら行う夜の坐禅会を実施しました。
さらに、秋には、香りに包まれる朝の坐禅会を実施しました。
「季節感」や「自然のうつろい」を感じ直す機会として、いい感じの反響を得て、ますます「うつろい」の活動をより良く育てていくモチベーションが上がっています。
自然をキーワードにしているお坊さん方とは手を組んでいきたいし、お寺で自分の心のうつろいを感じ直し、時間のゆとりを感じながら生きていきたい人たちが集える流れを作っていきます。
では!