国語と生きる力
■ひとまず、小結
国語シリーズもそろそろひとまず終わりにしようと思います。国語から始めた理由は、やはり、読解力こそが学業人生、そしてそれにとどまらず、現代を生きるうえで最も大きな意味を持つからだと考えているからです。数学や英語も、この国の教科書のレベルを考えれば、読解力があるだけで、十分に独学できてしまうでしょう。
逆に、すべての教科は実は読解力を鍛えているのだと考えることもできます。なんとなれば、読解とは結局、理解の別名だからです。
暗記によって知識を得ても、それが使える場面は、一問一答のような場面だけです。実社会では、もっと大きな問題群が与えられます。この場合の問題解決とは、大きな構造を見抜く力であり、試行錯誤しつつ、解決策を導き出していく力のはずです。暗記で得た知識が役に立つ場面があるとしたら、それはもうすでに誰かが解いたことのある問題に対してだけであり、そんなものはこの情報時代にはほとんど価値を持たないでしょう。国語とは、情報を整理し(要約)、それを時に応用する(選択肢との照合)科目であるわけで、結局、現代の学校教育に求められていることとは、すべて、理解という行為に等しい、国語の実践であると思えるのです。
■実践へ
実は、この記事の上の部分は2年前に書きかけたものが放置されてありました。
語られようとしていたのは、「演繹推論と国語」という何とも楽しさが湧き出てこないお題でした。
当時の私が何を語りたかったのか、昨日のお酒でもう忘れました。
兎も角、今後は読書をしていこうと思います。
読解の実践はあいも変わらず、小中高大学生たちと毎日やっているわけですが、何らかの教育効果があるのは、読解スキルの伝達などではなく、読書そのもののパワーなのではないかとやはり感じるのです。
確かに、技術を与えられれば、もっと読むようになる人が増えるかもしれないという意見は一考に値します。しかし私のような「臨床」的に読解指導をしている人間にしてみれば、そのような抽象的仮説よりも、実際に読書のパワーによって変わっていく生徒が具体的にいることのインパクトにやはり説得されてしまうのです。
本は、読み方を教わることなんかよりも圧倒的に面白い、と言いたくなります。
読み方を知らずに本は読めないでしょ、と言われますか?
私はそのことにも粗い反論をしたいと思います。
幼稚園児は遊びながら一輪車に乗れるようになるんですよと。
私たちは噛み砕かれなくても、日本語を話せるようになったんですよと。
子どもにゲームを与えると、難しいゲームでもいつのまにか相当な腕前になっているんですよと。
難しいことをやさしく?
そんな要らないお世話をするからダメなんです。
難しいことを難しく。そして面白く。
これこそ本当の教育だと思うのです。