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読書記録「九十歳。何がめでたい」

こんばんは。朝ドラ「おむすび」の評判があまり芳しくないようですが、毎週「そのうち脱落する」と言いながら、金曜日まで見てしまってます。全体の約4分の1が過ぎても、ムスビンがまだ高校1年生の夏と、非常にスローな展開であることに気づきました。
書道部エピソードは必要なのでしょうか? 来週(今週?)の予告でやっと「栄養士」の3文字が出ました。

佐藤愛子「九十歳。何がめでたい」(小学館)

書籍詳細のリンクを探しましたが、映画のサイトにもつながってるようなので、映画版のURLを貼っておきます。

9月だったか、下高井戸シネマでも上映されたので、「これは是非見たい!」と思ってるうちに、期間が過ぎてました。「映画は映画館で見てこそ!」と声高に主張はしませんが、家にいるとスマホをいじってしまう悪い癖が出ます。集中して見るなら映画館のほうがいいです。

てか、映画館でスマホいじる人ってどうなんでしょう?

本の文字が大きいのもあって、一気に読めました(そうなのか?)。
こういうおばちゃん(おばあちゃん?)になりたいというのは、過去に読んだエッセイから変わりません。物事をはっきりと言えない性分なので、ずばずば言ってのける姿に憧れるんでしょうね。

90歳はやっぱりおばあちゃんか……そんなに長生きできないと思います。佐藤愛子は去年で満100歳を迎えたってくらいの人です。ズバッとシャキッと物事を言わないと長生きできないんでしょう。

年齢といえば、私も昭和生まれなので、満年齢に馴染んでます。しかし大正生まれは数え年のほうがピンとくるらしい。

昔の年の数え方はシンプルでよかった。正月が来れば、一つ、年を加えさえすればいいというその大雑把な数え方が気に入っていた。例えば十二月二十日生れの赤ちゃんは、十二日後のお正月にはニ歳である。今は十二月二十日生れの赤ちゃんの元日の年齢は「生後十二日」といわねばならない。正月二日には「生後十三日」三日になると「生後十四日」……。すべてに大雑把な昭和を生きた者には、面倒くさいことこの上ない。

8~9ページ「こみ上げる憤怒の孤独」より

いつから満年齢に切り替わったのだろうか? そんなことを思います。

満101歳になった作家のエッセイを、20代の若者たちが読むとは考えにくく、この本の文字は一般的な文芸書よりも大きめです。やっぱりこれは年齢が近い人(最近は60歳でも若いと思うので、私の親より上の世代でしょう)が「そうなのよねー」とウンウン頷いて読むことが前提としてあるのでしょう。

しかし、40代の若造が「“九十歳。何がめでたい”の映画を見たかった」とは、アリなんでしょうか? どんな映画になったのかを想像しながら、読んでました。
「昔はこうだった」ってことを、ズバズバ書いたエッセイといえばいいんでしょうけど、それじゃあ「老害」と誤解を招きかねない。佐藤愛子は亡くなった祖母と年齢が近いけど、こういう話をしたことはありません。
これから令和を生きてゆくしかないので、そういう何かを残せるおばあちゃんになりたいです(子どもいないから、実際「おばあちゃん」にはなれないけれど)


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