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幕末のグッドデザイン賞‼ インテリたちを魅了した「折りたたみ地球儀」

江戸時代の庶民ってすごい人が多いですよね。このレベルの人が(おそらく)地元民しか知らない「マイナーな偉人」扱いなので、本当に層が厚いです。

神童、地理学に目覚める

 幕末の安政2(1855)年、ある町人学者によってユニークな地球儀が世に出され、江戸や上方などに出荷されて、当時のインテリたちの間で好評を博しました。
 
その町人学者の名は、沼尻墨僊ぬまじりぼくせん。天文、地理、暦学に精通し、書道、俳諧、篆刻など諸芸でも才能を発揮したという多才な人物です。
 
墨僊は安永4(1775)年3月、土浦田宿町(茨城県土浦市大手町)の旧家・五香屋治助ごこうやじすけの9男として生まれました。生後間もなく中城町(土浦市中央)の町医師・沼尻石牛せきぎゅうの養子となり、養父母によく仕えたと伝えられています。その孝行ぶりはすごかったらしく、土浦藩からたびたび褒賞を受けたり、藩主の御目通りを許されたりしたそうです。
 
また、墨僊は幼い頃から「神童」と評判で、土浦藩士・太田留蔵とめぞうの門下で読書を学んで以来、生来の強い向学心によって幅広い分野の知識を吸収していきました。

なかでも早くから興味を持っていたのが地理学です。
 
墨僊は寛政12(1800)年、26歳のときに世界各地について書いた『地球万国図説』という地理の研究書を著わして地理学者としてデビューしました。当時墨僊が誰に師事して地理学を学んでいたのかはわかっていませんが、この頃から地球儀の製作にも取りかかっています。こうして安政2年に発表されたのが、冒頭で述べたユニークな地球儀です。 

地球儀を傘のように折りたたむという斜め上の発想

墨僊のつくった地球儀は名を「大輿だいよ地球儀」といい、直径約23センチ。木版印刷した船型の世界地図を12本の竹骨でつくった楕円球に張り合わせたもので、傘のように折りたためることから、のちに「傘式地球儀」とも呼ばれました。

傘式地球儀・地図版木 (複製、茨城県立歴史館展示)(Wikipediaより)

縮めて箱に収めることができたので、持ち運びにはとても便利だったと思われます。当時、多くの知識人や大名などが墨僊の折りたたみ地球儀を購入したそうです。

なんでそんなスゲェもん隠してんの? 世に出しちゃいなよ!

墨僊には教育者としての一面もあります。
 
墨僊は土浦城下で「天章堂」という寺子屋を営み、安政3年4月に82歳で没するまで、庶民教育に貢献し続けました。通常の読み書き算盤に加え、時には自家製の地球儀を教材に使用してレベルの高い授業を行なっていたそうです。地域の教育の功労者ということで藩から褒賞されたこともあり、帯刀も許されています。

教師としての墨僊先生は、自分の学識を誇ることなく、温厚な態度で生徒に接し、よく理解できるまで懇切丁寧に指導したそうです。いい先生ですね。
 
ところで、さらっと書いてしまったのですが、墨僊が折りたたみ式地球儀を発表したのは何歳の時だったかお気づきでしょうか?
 
なんと81歳です。
 
ただ、これに関してはもっと若いころにプロトタイプを製作していたことを墨僊自身が書き残しています。あくまでも「発表」したのが81歳の時だったということなんでしょうね(※)。
 
※『朝日日本歴史人物事典』には「安政2(1855)年に12本の竹骨から成る傘式の地球儀(極直径23.5cm,組立式架台つき)を考案した」ともあるので、諸説あるのかもしれません。
 
墨僊いわく「長年手元に隠していたけれど、それに気づいたまわりの人たちがあまりにすすめるから、一大決心して世に出した」とのことです。また、発表するにあたっては、息子や有識者にも手伝ってもらってリニューアルしたのだとか。
 
まさか81歳という高齢で折りたたみ式地球儀をひとつひとつ手作りしていたとは考えられないので、当時各地出荷されて人々の手に渡ったのは、おそらく町工場などで大量生産されたものだろうと見られています。
 
それにしても、この折りたたみ地球儀って、上の画像を見てもらうとわかるようにいかにも壊れやすそうですよね。小さい子供がいる家庭では要注意なアイテムです。
 
我が家もそうですが、なぜか小さな子供は「大人からすると触ってほしくない繊細な物」を特殊なセンサーで発見して、無邪気に破壊していきます。それを止めようとすると、信じられないくらいギャン泣きします。5歳くらいになると多少我慢ができるようになりますが、それでもあの特殊なセンサーは健在です。
 
別にこれはこれで子供らしくてかわいいので全然かまわないのですが、「神童」ってどんな感じなのかがちょっと気になります。

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