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小説における“描写”について〜三島由紀夫から金原ひとみまで


 どうも文芸誌 空地、主宰の松崎です。今回ぼくは第5号に書くはずだった「日記を書く」という短篇小説をどうしても書き上げることが出来ませんでした。今こうしてその原因を検証すべく、この文章を書いています。
 それはなぜか? 色々な理由がありますが小説における“描写”の問題に行き当たってしまった、ということがあります。
 本稿は、小説における描写の問題について、何人かの作家の文章を年代順に読んでいきながら考えていくことを目的としています。


「日記を書く」の構想とその問題意識

 その“描写”の問題について移るまえにまず、「日記を書く」という小説の構想について話します。「日記を書く」は、同棲している彼女との部屋が急に息苦しくなってしまった男が、彼女が昼寝をしている隙に家を出る、というところから始まります。住んでいる街の行ったことのないブロックに行き、そこで見つけた和菓子屋で彼女への土産を買うまでの、彼の見ている風景とその間の意識の流れを書いていく、という予定でした。全体のトーンとしては、『無能の人』をはじめとした後期のつげ義春やpanpanyaのような、書店の「サブカル漫画」コーナーに並べられている作品を目指していました。つまり、「明るくて、さわやかな小説」を書こうとしていたのです。

 そうしようと考えた要因として、先人たちのふたつの思考が関係しています。ひとつは、小説家・保坂和志がデビュー作『プレーンソング』を書くときに設定した「ネガティヴなことが起こらないようにする」というルールです。彼は「小説の文章はネガティヴな磁場を引き寄せてしまう」と考え、そのようなものを以って文学とする風潮から逃れようとして、デビュー作を書きました。

 その問題提起はいまだに有効であるとぼくは考えています。その「ネガティヴな磁場」に抗わなければ、小説が自動的に「実存的」なものになってしまいます。小説というものが「生存」に関わる問題しか描けなくなってしまうだろうし、「切実」の側から「非・切実」なものを切り捨てることにもなってしまいかねません。いささか短絡的ではあるかもしれませんが、ぼくはそう考えています。それは同時に、小説というものが閉じられたものになってしまうことでもあると思うのです。つまり、それは小説がある種の危機に対するセラピーとしての機能に終始してしまい、日常から切り離された祝祭として扱われることになってしまうのではないか。

 ぼくは同人誌の主宰としても一読者としても、小説というものを日常の中で機能しうるような形式として基礎付けることができないか、と考えています。何かの問題に対する回答のための補助線でもなく、むしろ何事もなく記憶にも残らない一日に寄り添うものとしての小説。あるいは炊事や洗濯といった厳密には「生存」と関わってはいるものの、顧みられることのない行為を肯定すること。小説にできること、小説にしかできないことはそのようなことなのではないか、と考えています。

 小説が他のアートフォームと大きくちがうのは、小説が祝祭性からもっとも遠い、ということです。たとえば、演劇や映画、音楽ライヴといったジャンルにおいては、それが閉じられた特定の空間で行われることによって、一種の非日常的なカタルシスを生み出すことになります(だからこそ小沢健二はライヴの最後に「日常に帰ろう」と言うのです)。一方、小説の受容はもっと日常の中で断続的に行われるのが一般的です。移動中やちょっとした休憩時間、夕食後のような、日常の余暇において行われます。それはライヴではない、録音された音楽を聴くこととも似通っています。録音された音楽に対して「日常のプレイリスト」のような言葉が当てはめられることがありますが、小説もまた、そのような「プレイリスト」としての側面があるのではないか、それこそが小説の他のアートフォームには代替できない機能なのではないか。そしてそのような小説を書くためには「生存」に関わらない行為を受け止めきれる方法論を作り出さなければいけないのではないか。

 そのためには、哲学者・千葉雅也が『現代思想入門』の終盤に提示した、非近代的な生き方を体現できるような小説を構築することが必要とされていると考えています。

 千葉はフーコーの『性の歴史』における古代について、「古代の世界はもっと有限的だった。自己との終わりなき闘い」をするというよりは、その都度注意をし、適宜自分の人生をコントロールしていく」世界観であったと要約し、メイヤスーの絶対的偶然性の哲学から、「ひとつの体が実在する。そのことに深い意味はない」という考えを抽出します。

どうしようもなく悩むことが深い生き方であるかのような人間観が近代によって成立し、それがさまざまな芸術を生み出したわけですが、そこから距離をとり、世俗的に物事に取り組んでいくことには、人間が平坦になってしまうことなのでしょうか? そうではありません。むしろそのような世俗性にこそ、巨大な悩みを抱えるのではない別の人生の深さ、喜劇的とさえ言えるだろう深さがあるのではないでしょうか。

 そして千葉は、「私がこのようであることに必然性を求め、それを正当化する物語をいくらひねり出してもキリがありません。今ここで、何をするかです。今ここで、身体=脳が、どう動くかなのです」と述べます。この思考こそ、先ほど述べたような「生存」以外の問題を切り捨ててしまわずに、日常のとるにたらなさを肯定する小説を起動するために必要とされるものだと思います。つまり、「生存」というひとつの問題の追求に帰結していくのではなく、日常におけるあらゆる出来事を並列に扱うことのできる方法論の構築が必要だと思うのです。

 そして小説における「描写」は、小説をある一点に収束させてしまう性質を持っているように、ぼくには感じられます。描写する、ということは目の前の風景や光景を固定化します。そして、その描写が積み重ねられた時、それはどうしてもひとつの点に収束されていくように思えてならないのです。

 土手に出ると、何回来てもバイト終わりみたいな開放感を感じてしまう。しかもいつもよく走る方よりずっと上流の方で、こっちまできたのは初めてだ。家の近所より、ずっと川幅が広い。たぶん500メートルはあるんじゃないだろうか。土手沿いに立つ家もずっと数が少なくて、土手がずっと延長していて、その中に家が乗っかっているというふうな見え方に近い。ぼくは風景と記憶の一致がかなり強い性分で、でもそれはすぐに「前ここにきたときは…」と思い出せるのではない。はっぴいえんどを聴きながら歩いたことがある道だと思い出すより前に頭の中に『風街ろまん』一曲目、「抱きしめたい」が流れ出して、なんでこの曲がかかったんだろうと思い出そうと少し苦労して、ようやくそういえばこの前、ずっと家にいるのにさすがに煮詰まって、それで小雨は降っていたのだが外に出よう、でもなんか愉しみのようなものを作ろう、そうしなければ出るにはあまりに億劫なタイプの小雨だった。朝起きて外を覗いた時にはただ曇っているように見えた。わりかしくらい曇りの日、だと思っていたが、なんだかベランダの色が、彼女の部屋着のノースリーブワンビースが干しっぱなしだった。洗濯はぼくの担当だが、その細かい花柄のワンピースをぼくは前日洗濯した覚えも干した覚えもなく、不思議に思った。後で聞いたら彼女が夜中にコーヒーをのみながら本を読んでいて、こぼしてしまったから慌てて、シミが残る前に洗濯機に入れた。うちの洗濯機は結構古くて、回すとガシガシという音がするのに、「あなたは少しも目を覚まさなかった。一時期に比べたらずっとよく眠るようになった。しかし、地震が来たら逃げ起きてしまうのではないか、そう思ってすこし不安だ」と言っていた、彼女が夜中に洗ったそれが干されていなければ、ベランダを凝視することもなかっただろう。うっすらと濃い。全体の色がちょっと濃い、というふうに思った。はたしてそれは正しかった。小雨がけっこう執拗なタッチで、霧吹きの要領でベランダ全体を満遍なく濡らしていた。むかいの家の庇のワインレッドが鮮明に色を増していた。それで、ようやく雨が降っていることに気づいた。でもそうでもしないと気づかないということは、けっこう小雨でだから昼前には止むと踏んでいた、しかし、十一時くらいになって強くなってきた。ああ、これは止まないな、と思って、仕方ない、仕事も飽きてしまってというか、つづけるべきではない状態で、だからこのまえ借りてきた映画でも見ようと思った。で、ジャック・リヴェットの三時間もある長篇を観はじめたのだが、どうにも頭に入ってこない。ずっと目がテレビの画面を上滑りしている感覚があった。そういう状況で観るもんでもないだろうと思って、布団に横になったのだが、そうやって天井を上下が分からなくなりそうになる程見つめていて、何で観はじめたのかというと、映画でも観ないと頭の中にしこりのような煮詰まりが解消されなさそうだったからだ、こうして横になっているとむしろ悪化している感じがあった。だから、小雨でかなり億劫ではあった、しかし外に出ようと決めたのだった。で、そのためには何かしらの理由をつけないと出かける気にはならない、近所にさいきん見つけた古本屋があって、いつかいこうと思っていた、そこにいこう。わりかし新しめでしかも客も少なそうで、なんかずっと欲しかった本とかあったらいいな、柄谷行人の『近代日本の批評』とか大江の『洪水はわが魂に及び』の上巻とか、そう妄想して、奮い立たせて外に出た、しかし、そこまでしないと起き上がれないほど、じぶんの体さえも持て余してしまうのが不思議だ。外に出て体を動かさないとどうにもならないと分かっているのだから、こうやってじぶんでじぶんを操作しなくとも、自然と体が動いてもいいのに。


これは「日記を書く」のボツになったフッテージですが、こうして今読み返してみると、やはり風景と意識のながれの描写を重ねていくと、どうしてもどんよりしてしまう気がします。文体やトーン・アンド・マナーのせいかもしれませんが、どこか執念深さのようなものが感じられて、どうにもその根底にあるひとつの問題に対して収束していこうとしているように思えます。関連しているようでしていない意識の流れを連想ゲーム的に描写していこうとしているのに、個々の思念を並列に扱うどころか、むしろ直列させて何か大きな事物について語ろうとしてしまっている感があります。

 また、描写を積み重ねていくことは文章に物質的なリテラルな意味でも「重さ」を付与してしまっているという面もあります。描写を重ねていくことでそれを読む際にひとつひとつの描写を掘削していくような感じで丁寧に読み解くことが必要になってしまいます。結果として、その文章を読む行為、そこから得るムード自体に重苦しさが生まれてしまわないか。

名作の描写について考える

では、それらの疑問を踏まえた上で、これから六人の作家の文章を読みながら、描写についてより深く考えていきたいと思います。対象とするのは、以下の六作の小説です。


・『奔馬 豊饒の海・第二巻』三島由紀夫
・『万延元年のフットボール』大江健三郎
・『風の歌を聴け』村上春樹
・『好き好き大好き超愛してる』舞城王太郎
・『蛇にピアス』金原ひとみ



 選んだ理由としては、ぼくが描写についての問題に行き当たった際に思い出した、あるいは最近読んでその作品の描写について何かしらを考えた作品をチョイスしていています。何か包括的な、文学史的な検証として取り上げたわけではありません。そのため、テン年代以降の作品については触れることができていません。また、以上の作品の描写についてネガティヴな意見を述べる場合がありますが、あくまで現時点でのぼく個人の問題意識によるものであり、どの本もぼくの愛読書です。あくまで個人的かつ恣意的な作品の選択にはなりますが、ここの挙げた作品を読み直すことで描写についてより深く考えていくことができるのではないか、と考えています。

『奔馬』

きょうの祭のために、石段には新筵が敷かれ、社前の玉砂利には箒目がつけられている。その手前に廻廊風な朱塗りの柱の拝殿があり、拝殿の左右に神官と伶人が控え、会衆はこの拝殿をとおして祭を拝見するのである。
 すでに神官が修祓をはじめ、頭を垂れた会衆の上で、大榊の本につけた三つの小鈴が鳴った。祝詞が上げられ、大神神社の宮司が、朱いろの紐のついた金の鍵を捧げて進み出て、社の木の階段にひざまずき、その白衣の背を日向と影が分けているあいだ、権宮司はかたわらで、おーう、おーうと二度高く唱えた。宮司は進み出て、檜の御扉の鍵穴に鍵をさし、うやうやしくこれを左右へひらいた。黒紫色の神鏡が輝き出た。この間、伶人の絃は、戯れるように数度よろめく音色を弾いた。

 以上は、この『豊饒の海』四部作の語り手的な人物である本多繁邦が奈良の率川神社の三枝祭を訪れるシーンですが、こうして読んでみると意外にも説明的な雰囲気が強いように思います。映画的というべきか、カットをつないでいく感じで風景や状況が描写されていく。そこに心情が投射されている、というよりはむしろいたって客観的な世界観を構築しようという意図があるように感じます。また、これも映画的な問題ではあるのですが、執拗な描写は同時に、描写されなかったものを切り捨ててしまう、という側面もあります(どこにカメラを置き、フレーミングするかという問題)。その意味では描写たちは完全な客観ではなく、あくまで物語というひとつの点に収束されていく感があります。それが小説そのものの特性である、という見方もできますが、詳細に描写していくことで描写しなかった/できなかったものの存在が際立ってしまうという側面は確実にあると思います。

 また、描写を重ねることで生まれるリテラルな面での「重さ」や、それを読むことにおける一種の重苦しさはかなり強いと思います。それには、すべてが仰々しい感じの文体の影響も大きいでしょう。この文体や手法で書き続けるかぎり、形式的な次元ではどうしても重苦しいものになってしまいそうです。

『万延元年のフットボール』

夜明けまえの暗闇に眼ざめながら、熱い「期待」の感覚をもとめて、辛い夢の気分の残っている意識を手さぐりする。内臓を燃え上がらせて嚥下されるウイスキーの存在感のように、熱い「期待」の感覚が確実に躰の内奥に回復してきているのを、おちつかぬ気持で望んでいる手さぐりは、いつまでもむなしいままだ。力をうしなった指を閉じる。そして、体のあらゆる場所で、肉と骨のそれぞれの重さが区別して自覚され、しかもその自覚が鈍い痛みにかわってゆくのを、明るみにむかっていやいやながらあとずさりに進んでゆく意識が認める。そのような、躰の各部分において鈍く痛み、連続性の感じられない重い肉体を、僕自身があきらめの感情において再び引きうける。それがいったいどのようなものの、どのようなときの姿勢であるか思いだすことを、あきらかに自分の望まない、そういう姿勢で、手足をねじまげて僕は眠っていたのである。

 書き出しの部分。まず形式として、重苦しい。大江の文章の特徴として、比喩の詳細さが挙げられると思います。ただ単に「ウイスキー」ではなく、「内蔵を燃え上がらせて嚥下される」という表現が前に置かれることで、ウイスキーがより限定され、詳細に描き出されることによって画素数が上がり、文章が格段に重くなっています。それが、大江特有の文体につながっています。

 また、こうして本を片手にWordに打ち出してみると、全体的に「描写的」な文章であるということが分かります。眼ざめたじぶんの状態を、丁寧に紐解いて検分するような手触りがこの文章にはあります。心情を書き出すのではなく、その原因と結果を丁寧に洗い出して、神経質な手つきで並べていく感じ、とでも言いましょうか。一人称でありながら、じぶんを遠くから眺めて、何が起こっているのかを客観的に捉えようという意識を感じます。


『風の歌を聴け』

  大江の文章は執拗なまでに描写的です。それは一種、テキスト論的とも言えると思います。外部にある事象をひっぱってきて適応するのではなく、前の文章との関連性の中で、それ自体を読み解き、解きほぐしていく。文章自体の中を掘り進める形で展開していく。一方で村上春樹の文章はむしろ、外部のイメージを援用することで文章自体の形式的な重さから逃れることに成功しています。

 僕は本を読むのをあきらめ、ジェイに頼んでポータブル・テレビをカウンターに出してもらい、ビールを飲みながら野球中継を眺めることにした。大した試合だった。4回の表だけで二人の投手が2本のホームランを含めて6本のヒットを打たれ、外野手の一人はたまりかねて貧血を起こして倒れ、投手交代の間に6本のコマーシャルが入った。ビールと生命保険とビタミン剤と航空会社とポテト・チップと生理用ナプキンのコマーシャルだった。

 大江なら、それぞれのコマーシャルについて、より詳細にそれがどのような内容で、語り手にどのような効果を与えたのかを丁寧に書き出していくかもしれません。しかし、春樹はただその種類を書き出していくだけです。春樹はもはや、描写しようとはしていないようにすら思えます。三島や大江のように、文章を積み重ねて何かを正確かつ詳細に書き出そうとはせずに、読者の間にあるイメージを各々当てはめてもらうことで済ませる。それが初期の村上春樹における描写のあり方であるように思えます。実際、読者は「ビールと生命保険とビタミン剤と航空会社とポテト・チップと生理用ナプキンのコマーシャルだった」という一文を読みながら、そこに勝手にイメージを当てはめたと思います。それは「描写からイメージ」への転換とも呼べるかもしれません。

 その結果、春樹の文章は前の二人の文章に比べて格段に軽やかなものになっています。描写の量を減らしていけば、形式としての文章に軽やかさが生まれる、というのはある程度正当性がある考えのように思えます。


次はその村上春樹の影響が指摘されることもある舞城王太郎の文章を見てみましょう。


『好き好き大好き超愛してる』

携帯をバッグにしまって僕は机を離れる。机の上の時計を振り返る。今五時三十五分。ちょっと寝てから最初の一通目を探そう。去年の誕生日、柿緒は前日から遊びに来てて、きっとその一通目を僕には見せないようにしてどこかに隠したのだ。柿緒はそれを捨てたかな?……どうだろう。何か僕に読ませたくない文章を書いたんだろうか。それは自分の病気とかと関係あるんだろうか。柿緒は自分の体の状態を知っていたし、リンパ腺への転移があったら行末どうなるのかも知っていたから、ひょっとして来年の、……というか今年の誕生日の前日までは自分が生きていられないだろうと知っていて、そうなるなら僕に読まれたくない何事かを、そこに書いてあったんだろうか。

 (中略)

 眠り込む前に起き上がり、トイレに行って、洗面所で歯を磨く。前歯の横の辺りをぐしぐしやってるときに僕は言い忘れたことを思い出す。「ありがとう柿緒」と僕は声に出して言う。



 全体的に描写の少ない、心情が書きつけられているようなこの小説の中で、描写が存在している部分を見つけることさえ簡単ではなかったのですが、こうして読み直してみると、大江(一応は村上春樹にも)に見られた、描写と心理の連関は舞城においてはもはや存在していないように思えます。行動と心情は無関係に進んでいきます。大江の場合は心情さえも描写されなければ書かれないように見えましたが、舞城の場合それは完全に乖離してしまっています。「携帯」、「バッグ」、「机」、「時計」、そのどれも詳細については書かれておらず、位置関係さえも不明です。三島が、舞台設定を作り上げるような丹念な描写を積み重ねている一方で、舞城において物語の舞台は完全に読者の想像するイメージに任されています。「描写からイメージへ」の傾向のひとつの臨界点と言えるでしょう。

 その結果として、文章に重苦しさはありません。むしろ心情が次々と書き連ねられ、重ねられていくことで、エモーショナルで訴求力のある文体が作り出されているように感じられます。

 どうやら描写というものが減っていくにつれて、文章には生身の心情が現れることとなり、重苦しさが減っていく一方で、エモーショナルな側面が強くなっていくようです。その理由についての詳細な考察は別の機会に譲りますが、ここでひとつ考えられるのは、外部性が消去された結果、圧倒的な主観性が立ち上がり、その結果としてエモーショナルかつ訴求的な文体が出来上がっていくという、推測です。

 最後に、その極致である金原ひとみの『蛇にピアス』を読み直していきましょう。


『蛇にピアス』

『蛇にピアス』の時間処理はあまりに特徴的です。

アマのいない部屋に、情けない私の声が、響いた。ピアス、2Gにしたんだよ。早く笑って喜んで。スプリットタンに近づいたね、って笑ってちょうだい。勝手に日本酒を飲んでしまった事を、呆れた顔で怒ってよ。
 私は考える事をやめて自分を奮い立たせた。私は意気込んで部屋を出た。
「捜索願って、親族以外でも出せるんですか?」
「あー、出せるよ」
 警察のやる気のない態度の私は苛立った。

 金原の描写を欠き感情だけが書き付けられたような超主観的な文章では、移動すら書かれることはなく、一行おくこともせずシームレスに場面が変わってしまいます。語り手のルイの中では、実際に移動したことなど記憶にすらないのだと思います。彼女の中では、恋人がいないというパニックと警察への苛立ちが短絡されてしまっていて、その間の過程は省みられていないのでしょう。しかも驚くべきことに、ここでは感情の吐露が行われるだけで、風景のような外的な要素はほとんど見えてきません。唯一、警察だけが存在していますが、それも詳細が描写されることはなく、相手が「警察」であるという説明でしかありません。春樹が描写の代わりにイメージを用いたのに対して、金原は記号を用いていると言えるでしょう。警察がどんな口調か、どんな容姿か。それは金原にとって描く必要のない事柄なのでしょう。いよいよ、描写というものが小説から完全に姿を消しているようです。


終わりに

 ここまで五人の作家の文章を描写に注目しながら読んできましたが、はっきりと言えることは


① 描写を積み重ねていくほどに文章は重苦しくなり、読者に読む根気を強いる

② 描写が少なくなるほどに、登場人物のエモーションが文章に占める割合が大きくなる


ということでしょう。さらに、付記すれば描写の多い三島と大江の描写のあり方も大きくちがいます。三島の描写は写術的で安定しています。何が見えるか、何がどのように配置されているかを彼は描写しています。対象は確固たるものであり、彼はそれを書き取ることで、舞台設定を明確にしていきます。一方大江の描写は検証的で不安定です。彼は何が起こっているのか、それはどういうことなのかをつぶさに描写していきます。確固たるものを書き取るのではなく、描写していく中で、対象の正体を見極めようとしています。


 これで小説の描写について、個人的な何らかの解決策を見出せたというわけではありません。当初の問いへの答えが見つかったわけでもありません。むしろ、新たな問いが生まれたとさえ言えると思います。たとえば、「」の問題。描写を欠いた文体には、形式的な重さはない一方、「私」が充満しているように感じられます。それはもうひとつの重苦しさかもしれない。大江の「私」が描写を経るにつれて緩やかに変容していったのに対し、描写のない舞城や金原の小説において、「私」は疑われることも変容することもないようにも思えます。これはあくまで、取り留めもない推測ですが、どうやら「描写」の問題は「私」の問題と背中合わせで考えなければいけないようです。


 第5号には「日記を書く」とは別に書いた「ハイウェイ」という小説が掲載されます。文学フリマにも出店しますので、お手に取っていただけると幸いです。ここまで読んでいただきありがとうございました。


引用文献
・千葉雅也『現代思想入門』講談社現代新書、2022年
・三島由紀夫『奔馬 豊饒の海(ニ)』新潮文庫、2002年
・大江健三郎『万延元年のフットボール』講談社文芸文庫、1998年
・村上春樹『風の歌を聴け』講談社文庫、2004年
・舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる』講談社文庫、2008年
・金原ひとみ『蛇にピアス』集英社文庫、2006年

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