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映画『石がある』についてのメモワール

 
 最近作ったばかりのクレジットカードでチケットを買い、劇場についてチケットを確認し、鑑賞後にすぐ記録できるようにFilmarksにクリップしておいたのに、タイトルバックが出るまでずっと、タイトルを『石を売る』とかんちがいしていた。だからその後も、石を売る話なのだろうと思って見つづけていて、加納土が小川あんに石を押し売るのだろうかと勝手に緊張してしまい、たしかに朴訥さがシュールにも恐怖にも見える加納の演じるキャラクターは突然そういうことをしてきそうだ、その後で「いやだから、かんちがいなんだよ」とそのまちがった予感を打ち消す。
 映画館を出て、宮下パークの傍を歩きながら(もちろんオザケンを聴きながら)、何でそんなかんちがいをしていたのだろうと思い、つげ義春の『無能の人』の一本目が「石を売る」というタイトルだったことに思い当たる。妻子のある男が河原で拾った石を川原に建てた小屋で売っているという話で、後期のつげらしく、どうしようもない男のどうしようもなさがおかしみとともに描かれていて、ぼくはかなり好きだ、今だったらわりとエモい、とか言われそう。哀愁があって、けっこう笑える。しかし、じぶんのまちがいを認めたくないわけではなくて、たしかに『石がある』とつげ義春って遠くはないんじゃないだろうか。
 『石がある』はどこかの田舎町を訪れた小川あんが川辺で水切りをしている加納土と出会う。ふたりは流れでなんとなく川の上流を目指すことになる。ストーリーラインから察せるように、映画自体のトーン・アンド・マナーもずっと脱力気味で、けっこう笑える。むろん、それだけではなくて、加納土が家族を失っているようだ、とか、小川あんもずっと何かが不足していそうなキャラクターを演じている。しかし、いくつかのシーンはあきらかに笑わせることを意図していて、加納の登場シーンがそのひとつだ。小川が対岸の加納に話しかけるが、聞こえなくて聞き返す。それでもダメで、すると加納がヌルッと川に入ってこちら側に近づいてくる。どんどん体が水に浸かっていくのだが、まったく意に介さず近づいてくる。こちら側の小川は見るからに引いている。それをカメラはワンカットで左右にパンしながら追っていく。
 その笑い、というのがつげ的ではないか、と思うのだ。いわゆる冗談や漫才の笑いとはちがう、それは社会規範としてはたらくという面もあるからだ。何か“型”からはみ出てしまう人を肯定するような、慈しみを含んだ笑い。少なくとも社会的にはまともじゃなくても、ある種の誠実をもって生きている人を肯定する笑い。つげの笑いとはそういう「しょうがないなぁ」というものだと思うし、『石がある』に満ちている端正なショットと共存している脱力感もまた、その類の肯定なのだと思う。

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