キラーズは思い出だったんだなと思った(逆にsyrup16gは思い出にはなりようがなかった)
フジロックの初日を配信で見ていた。
フローティング・ポインツを見ていて、近年の曲はけっこう好きだったから、やっぱりテクノだとしても独特音楽だなぁと思いながら楽しんで、映画のブルージャイアントを観て、こういう流れで演奏の文脈の提供してもらったうえでジャズを聴けるとすごく楽しいんだなと思ったりして、その後インタビュー記事を読んだりもしていたから、上原ひろみを見ているのも楽しかった。
最後はキラーズを見ていたけれど、自分が繰り返しアルバムHot Fussを聞いていた頃以降、あまりにもキラーズを聞いていなさすぎたせいか、始まってすぐから、あまりにも自分が昔の感情でパフォーマンスを見ていることに驚いたし、昔キラーズを聞いていたときの感情や気分がよみがえってしまうことのエモさも含めてキラーズのパフォーマンスを見ることになって、ひどく気持ちを揺さぶられた。
俺はあまりノスタルジー消費的なものが居心地がよくなくて、そういうことを楽しんでこなかったように思う。
けれど、今日、キラーズを見ていて、演奏自体に感じることだけならそうならないくらいに気持ちを動かされていて、これは完全に思い出によって感動しているんだろうなと思った。
単純に、Hot FussとSam's Townに収録されていた曲を演奏しているときにしか、そんな気分になっていなかったし、耳に馴染んでいない曲であっても引き込まれて感動してしまうほどの演奏ができていたライブというわけではなかったのだと思う。
そもそも、キラーズとしても、演奏の方向性として、みんなが好きな曲を、みんながやっぱりその曲が大好きだと気持ちよく追認できるように、気持ちよくやってあげようとしていた感じだったのだろう。
俺は今まで、そういう感じでやっているライブが苦手で、そうじゃない度合いが高い人たちのライブに行きがちだったのだと思うけれど、そんな俺が、なぜだかフジロックのキラーズにはひどく気持ちを揺さぶられてしまった。
それは明確に、キラーズを聞いていたという体験が、その頃の彼女が一緒にキラーズを聞いていたり、キラーズの曲についてあれこれ話してくれたりしていて、それによって、ただその頃はそういうものを聞いていたというだけではない、誰かとの思い出が多分に混ざり込んだ音楽体験になっていたからだったのだと思う。
友達とも、彼女とも、あまり音楽の話をすることができなかった人生だったなとずっと思ってきた。
その中では、キラーズを聞いていた頃の彼女とは、一緒に部屋にいて音楽を流していることが多かったし、彼女がこの曲が特に好きだとか、別のバンドのどの曲も好きだとか、そういうことをよく教えてくれていたし、カラオケでキラーズのミスターブライトサイドを女友達とみんなで歌って盛り上がったとか、そういうことをあれこれ話してくれていた。
他の彼女と音楽の思い出がないわけではないのだ。
最初の彼女とは、一緒に聞いていたわけではないけれど、いくつかCDを貸してあげて、クラムボンなんかは気に入ったみたいで、その後ずっと聞いていたみたいだった。
別れてしばらくしてから、たまに会ってお喋りするようになったけれど、別れて6年とか7年経った頃、俺がかなり凹んでいたときに、クラムボンのライブに誘ってくれて、それはたまたまよみうりランドのその後伝説的なものとして語られるライブだったりして、ライブを見ながらずっと何度もぼろぼろ泣いている俺を放っておいてくれて、終わってからのんびり喋って、のんびり飲みに行ってくれて、あのときは、一時的なものだとしても、とても心が楽になったし、そんなふうに一緒に音楽を聞けたことがとても心地よかった。
次の彼女は、俺が部屋で聞いていて、けっこう好きかもと言っていたのは、エリオット・スミスとか七尾旅人とか、それくらいだったけれど、国府達矢のライブに誘って一緒に行ってみたら、ひどく感銘を受けたらしく、その後は行けるときは一緒に吉祥寺のマンダラ2に見に行っていたけれど、それだっていい思い出なのだと思う。
そういう音楽の思い出は、その後の彼女にもあるし、それぞれの彼女にそれぞれにあるのだ。
俺は友達と一緒に一軒家を借りて同居していた時期が8年くらいあったし、友達と一緒に音楽を聞いていたじかんもそれなりにあった。
フーファイターズのカラーアンドシェイプを聞いていると、なんとなく一緒に住んでいた友達のことを思い出しそうになる感じはしなくはないけれど、カラーアンドシェイプはその後もたまに聞くアルバムであり続けているし、ソフィア・コッポラのサムウェアでのマイヒーローの印象もあったりで、特定の思い出に結びついている感じはしない。
きっと、その同居人ということだと、ZEPPET STOREを聞いたりすれば、そいつとのことばかりを思い出したり、そいつと行き先も決めずに旅行に出かけて、車でCLUTCHをループで流していたのを思い出すのだろう。
そして、それはその後まったくZEPPET STOREを聞かなくなってしまったからではあるのだろうし、それはキラーズが思い出として心を揺さぶったのも同じなのだろう。
クラムボンは元彼女とライブに行くまでも、ちょくちょくと聞いていたし、彼女との思い出とともにクラムボンを好きになっていったわけではなかった。
国府達矢にしたって、彼女と一時期一緒に見に行っていたとはいえ、その前もそのあとも一人で観に行っていたし、人を誘っても行っていたし、今でもずっと聞いているし、むしろ国府達矢は俺にとっては完全に現在の音楽なのだろう。
昔一緒に聞いていた人や、国府について話してきた人がいたからといって、聞いていて何かを思い出すようなものではなくて、むしろ、思い出すとしたら、国府達矢を聞かせて好きになってくれた人や、それぞれにどんなふうにいいなと思ってくれたらしかったのかとか、おすすめしてもまともに聞かなかった人たちのことを思い出すのだろう。
その曲にいろいろ思い出があったからといって、その曲を聞いてどれだけ思い出を思い出すのかというのは、その曲を今聞いて、今感じて、今思うことがどれだけあるのかによるのだろう。
今感じることとして、その曲のよさを昔以上に強く感じるとか、その曲やそのバンドに感じてきたことが、改めて強く確かめられたような気持ちになったりして溢れてくるのなら、昔のことを思い出すのは後回しになるのだろう。
そういうものが希薄で、かといって、いい思い出が蓄積されているときに、自分が今この曲を聞いて何を感じているのかよりも先に、この曲が好きだった頃のすきだったなという感覚とか、楽しかったという感覚が思い出されて、一緒に聞いていた人がこの曲を好きだったことが幸せだったような気持ちになって、そんな気分になってきているところに、パフォーマンスの熱量が伝わってくると、一気に心が動かされて、ただ演奏に熱くなるというだけではない、自分でも制御しにくいような気持ちが溢れてくるのだろう。
たしかに、キラーズは好きだったけれど、Hot Fussしか好きじゃなかったというか、サムズタウンですら、ホットファスの10分の1も聞かなかったのだと思う。
実際、配信を見ていて、一番気持ちが動かされていたのは、始まってしばらく初期の曲が連続していた辺りだった。
俺はヒューマンが出たあたりでもうほとんど聞いていなかったし、それよりもあとの曲は、フジロックの配信で初めて聞いたんじゃないかと思う。
"Shot at the Night"とか知らない曲が入ってきた辺りでノスタルジーで涙が滲んでいる状態が続いているのも落ち着いて、そこからは、こういうバンドだったんだなとか、Hot Fussは他にどんな曲があったんだっけと思ったりしながら、そこそこに楽しんでいた感じだった。
最後のミスターブライトサイドに関しては、ずっと人気曲であり続けていて、アンセム化しているとか、ミーム的に扱われているところもあるくらいで、ビリー・アイリッシュも好きな曲だとか語っていたりというのは知っていたから、世界中でそういう曲になっているものを、そういう曲でみんなで楽しむやり方として、こういう感じでパフォーマンスするんだなというように見ていて、さほど感動したというわけではなかった。
その彼女が好きだったのも、ミスターブライトサイドとサムバディトールドミーだったし、女友達とはネタ曲的にふざけながらみんなでキラーズを歌っていたようだけれど、そんなふうにして遊べる曲だったからこそ、その後ここまでの曲になったんだなと、彼女や女友達の素直さというか、普遍的な楽しさにちゃんと吸い寄せられる感性をすごいなと思ったりとか、ミスターブライトサイドを聞きながらも、やっぱりうっすらと彼女のことを思い出していたのだと思う。
ちゃんと演奏を聞いていなかったといえばそうだったのかもしれない。
初めて聞く曲をぼんやりと聞いていて、やっぱり楽器の演奏としてはそんなに好きな演奏というわけでもないんだよなと思ったりしていたけれど、だからといって、思い出ばかりが頭に浮かんで、そのせいでいつもはしない種類の感動をしているのは不思議な感覚だった。
けれど、どうしてキラーズはそんなふうに、今まで感じたことがないくらいに、懐かしさで気持ちが動かされてしまったのだろうと思う。
キラーズと同じように聴いていたというわけではないけれど、同じ時期に、似たような感覚で聞いていたものということだと、キラーズとインターポールとエディターズは自分の中でなんとなく同じくくりに入っているのだと思う。
あとは、またちょっと違うけれど、その頃に近い感覚で聞いていて、もっと好きになっていったものだと、ブロックパーティーとフレンドリーファイアーズがあるのだろう。
エディターズはそこまでいいと思っていたわけではなかったように思うけれど、インターポールをフジロックの配信で見たとしたら、どんな気持ちになるのだろうと思う。
けれど、キラーズと違って、インターポールは、最近も本を読んでいて、アメリカ無差別殺人をした男が、犯行前にインターポールのPDAという曲を聞いていて、著者も曲聞いてみたけれど何を歌っているのか難解だったと書いてあって、久しぶりに聞いてみたりしていた。
当時だって一回も歌詞を見なかったから、一曲も何について歌っているのか知らなかったけれど、PDAは聞いていた曲ではあったけれど、そこまで印象的だった曲でもなく、歌詞をグーグル翻訳にかけて読んでみても、わかるわからないというか、あまり印象を受けられなくて、何も思えなかった。
とはいえ、インターポールというのは、そんなふうに久しぶりに聞いてみることがあったし、それ以前も、たまにあのギターリフが中心なバンド演奏の感じが聞きたくなって、インターポールを聴いて、それとセットのようにして、エディターズも数曲聞いたりしていた。(ちょっと違うけどキングス・オブ・レオンを続けたりとか)
そして、そういうときに、キラーズも一緒に聞こうという感じにはならなかったのだ。
キラーズの場合は、演奏の感じが好きというわけでもなく、ホット・ファスというアルバムが好きという感じが強すぎたんだろうなと思う。
Hot Fussはずっと好きだったし、20代のあいだは、たまに聞こうと思って、部屋の窓を閉めて、音を大きくして、歌詞はまったく知らないけれど、なんとなく音として覚えている嘘の歌詞で一緒に歌って楽しんでいたのだと思う。
フレンドリー・ファイアーズは、ずっと好きで、近年久しぶりに出たアルバムも好きだったり、ブロックパーティーもインティマシーまで聞いて、インティマシーに不満足だったし、再結成からはほぼ聞いていないけれど、ここ数年まったく聞いていないけれど、それまでは、サイレントアラームとウィークエンド・イン・ザ・シティはちょくちょく聞いていたし、その2バンドはライブも行った。
その頃に特に好きでよく聞いていたものということだと、キラーズというのが、一番当時しか聞いていなかったということになるのかもしれない。
キラーズを一緒に聞いていた彼女は、インターポールはそんなでもなさそうだったけれど、ブロックパーティーとかフレンドリー・ファイアーズはそこそこ好きそうだったり、メトロノミーは俺よりも彼女のほうが好きそうだった。
その彼女は愛されずに育った系の人だったし、俺とは生きているというのはどういうことなのかという感覚がけっこう違っていたのだと思う。
パッション・ピットをかなり好きになっていたり、ガールズも好きだったりしていたのは、彼女らしかったんだろうなと思う。
そういう意味では、俺と彼女は音楽の趣味が合うというわけではなかったのだと思う。
二人ともそこそこ単純で素直で、みんなが好きなものを俺も彼女もそれなりに好きになれるという感じだっただけなのだろう。
俺も彼女も、キラーズに対して、さほど人格的な結びつきや特別な何かを感じていたわけではないまま、それでも、ミスターブライトサイドという20年経ってこんなことになってしまう曲を擁するHot Fussというアルバムに、20年経ってこんなことになってしまうのも不思議ではないパワーを意識しないまま感じ取っていたからこそ、他のバンドのアルバムよりも思い出が残ってしまう感じに、二人で楽しく聞いていたということなのだろう。
個人的に好きなわけでもなく、個人的に感動しているわけでもなかったからこそ、あの曲を聞くとあの頃を思い出すし、今聞いても気分が高揚するすごい曲だなと思いながら、20年経っても俺と彼女のことを思い出すことができたのだ。
むしろ、俺は自分にとって特別な音楽や、演奏の感じを感じているのが心地よくて聞いている音楽にばかり触れてきたけれど、ポップソングというものの本当のすごさとは、そんなふうにして、自分にとっての自分なんて関係なしに、それが流れている場所にいる人たちを楽しい気持ちで結びつけて、一緒に楽しい時間を過ごしたという思い出を残してくれるということなのかもしれない。
そういう意味では、俺がノスタルジー消費的に音楽を楽しめないのは当然なのだろう。
俺には自分の好きな曲があったし、それを他人と一緒に聞いたりはしてきたけれど、キラーズを聞いていたように、自分と関係ない楽しい音楽を他人と一緒に楽しく聞くことをほとんどしてこなかったのだ。
それなのに、懐かしいものを聞いたからって、誰かとの楽しかった思い出を思い出すわけがなかったのだ。
俺はずっと、自分が昔聞いていた懐かしい曲を聞こうとしてこなかったし、昔聞いていた曲を聞くにも、今の自分の今の耳で聞いていて気持ちいい曲以外、昔の曲を聞こうとすることがめったにないままできた。
それは懐かしさで音楽を楽しんでこなかったということだし、俺は懐かしさがうれしいという感覚があまりわかっていない人間なんだろうなと思う。
そして、そういうものが楽しくて心地よい人たちからしたときには、俺の懐かしさへの冷淡さというのは、接していて鬱陶しく感じられるところだったりするのだろうなと思う。
そんなことを思って、またフジロックの二日目の配信ではsyrup16gを見たのだけれど、やっぱり自分にとって、音楽を楽しむことと、思い出とか懐かしさとの関係というのは、そういう関係性になっているんだなと思った。
シロップも、キラーズと同じように、昔はよく聞いていたけれど、ほぼ聞かなくなってしまったバンドではあった。
フジロックでは、セットリストが昔のファン向けで、俺もHURTまでは、アルバム通してを数十回とか百回以上とか聞いていたし、宇宙遊泳まで全部が馴染みのある曲だった。
けれど、キラーズと違って、Syrup16gは、見ていても誰のことも思い出さなかった。
思い出すとしても、自分が今までに行ったライブで見た五十嵐を思い出していたくらいだったのだろう。
そして、演奏している五十嵐たちの姿を見ながら、好きだった曲の、好きだった感じが自分の中に浮かんでくるのだけれど、やっぱりシロップというのは、昔の俺と結びついていて、今の俺に結びついているものではないんだなということを改めて思った。
シロップを聞くことで、シロップを聞いているときの気分になれて、そういう気分に浸っていられることで気持ちを落ち着けていられることが、一時期の俺にはとても大事だったのだと思う。
けれど、俺はどこかの時点で、自分を生きている気分がかなり変わってしまった。
そして、その変わってしまったあとの生きている気分にとっては、シロップの音楽は、自分のことのように浸って、シロップから伝わってくる感情を自分の中に充満させることで、自分がちゃんと感情を生きていられているような気分になれるものではなくなってしまったのだ。
自分を生きている気分が変わったとき、andymoriもずっと聞いていたのに、ほとんど聞かなくなってしまった。
代わりに、それまでもちょくちょく聞いていたけれど、玉置浩二(と安全地帯の一部のアルバム)を聞く時間がかなり増えたのだと思う。
しばらく聞いていなかった近年の作品も聞いてみて、ちゃんとずっと聞き続けて、ライブにも行っておけばよかったと後悔したりしながら玉置浩二を聞いて、あとは、国府達矢も以前より聞く頻度が上がって、新作が出てからは延々と聞き続けるようになった。
生きている気分が変わってもあまり変わらなかったところということだと、チャットモンチーと、橋本絵莉子的と、橋本絵莉子的なものを感じる人たちのものは、ずっと聞いているけれど、かといって、生きている気分が変わっていなかったなら、橋本絵莉子の近作は物足りなかったのかもしれないとも思う。
syrup16gばかり聞いている時期があったのになと思う。
あの頃は、どうにかならないんだろうかと思って、どうにかしたいと思っていたんだろうなと思う。
もう今は、どうしたいというわけでもなく、どうなってもいいし、自分が思うことをできているのなら、あとはどうでもいいと思っているのだと思う。
そんなふうにして、syrup16gを聞かなくなって、フジロックでのいいライブを見ていても、じーんときたし、涙は滲んだけれど、やっぱり自分の音楽ではないんだなとシロップには思ってしまっていたのに、キラーズは、そんなふうに変わってしまった俺にも、彼女とのことを思い出させて、どうしていいかわからないほど気持ちを揺さぶってきたのだ。
もっとそうやって、楽しかった思い出が残るように生きて、楽しかった思い出を思い出していい気分になることを楽しむようにして生きればよかったんだろうなと思う。
キラーズに、今さらそんなことを教えられてどうしたらいいのだろう。
もう遅ぇかねぇ ねぇ
もう遅ぇよねぇ
そんなふうに、五十嵐の声に合わせて歌ってみることで少し気持ちを落ち着かせていられた頃があったのだ。
けれど、俺は「もう遅ぇかねぇ」なんて、もう思っていないし、「もう遅ぇよねぇ」なんて自分に確かめているふりをする気になることもなくなってしまっているのだ。
それはただ時が経てば忘れていく問題ではなかったけれど、かといって、時が経って、何もかも覚えているまま、何もかもは問題ではなくなっていったし、俺はそんなふうにして、今もまだ空っぽのままで生きているのだと思う。
Syrup16gを聞くことで落ち着いていられた場所は、もう俺が自分の人生に何かを思う場所ではなくなってしまった。
そして、キラーズが懐かしかったからって、懐かしさを共有する相手がそばにいないのに、その懐かしさに何を思えばいいというのだろう。
彼女のことを思い出してキラーズに懐かしくなっただけで、俺は彼女のことを懐かしく思ったわけではないし、彼女との日々を懐かしいものに思えてうれしかったわけではないのだ。
空っぽのままで生きているとはそういうことなのかもしれないし、そう思わないからって、もう遅いのだろう。
けれど、俺は自分のどれがでかい過ちだったのか、今でもよくわかっていないのだ。
(終わり)