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矛盾か多様性か―聖書の〈矛盾点〉について

聖書の矛盾点?

先日、Twitterで次のようなつぶやきを見かけた。曰く、「バベルの塔は創世記11章で崩壊するのに、それ以前の10章ですでに言語がわかれているのは奇妙である」と。この識者は、そこに聖書の矛盾点があり、聖書というのは頼りのない書き物だと言っていた。

「バベルの塔」とは

「バベルの塔」の説話は聖書の中でもとりわけ有名な話で、古今東西を問わず人々の想像力を掻き立てている。ブリューゲルの『バベルの塔』のような迫力に満ちた絵画もあれば、「バベル」の名を冠したドラマやキャラクターも多く存在する。また、ロシアの言語学者トゥルベツコイは『バベルの塔と言語混合』という論文をものしていたりもする。「バベルの塔」は、分裂や背徳、言語の枝分かれといった事柄を指示するメタファとして現在も有力だ。

この説話は世界の言語が枝分かれする起源を描いたものだとされている。しかし、くだんのTwitter識者によれば、「バベルの塔」説話が登場する以前に、言語が分裂したとする記述が聖書には既にあるというのだ。

オリジナル版「バベルの塔」はどんな話か?

ここで一度、聖書にある「バベルの塔」の記述を確認してみよう。「バベルの塔」説話は旧約聖書の冒頭部「創世記」の第11章1~9節である。

世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住みついた。…彼らは『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう』と言った。主は降って来て、…言われた。『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。…直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。』…こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

興味深いことに、よく言われるような「塔の崩壊」は聖書には描かれていない。あくまで塔の建設を見た神が「言葉を混乱させた」だけである。話が脱線するので詳しくは書かないが、通説というものはこのようにオリジナルから離れた頼りないものであるし、口から口に伝わってゆく事柄は次第にその内容を変えてゆくものである。

「バベルの塔」説話の矛盾点

さて、それではここで指摘されている矛盾箇所を確認してみよう。問題の箇所は、「創世記」の第10章5節である。

海沿いの国々は、彼ら(引用者註:ヤワンの子孫)から出て、それぞれの地に、その言語、氏族、民族に従って住むようになった

ここで注目すべきなのは「その言語…に従って」という部分である。つまり、言語はこの時点で既に枝分かれしているのである。一方、「バベルの塔」が登場するのは次の11章なので、ここに矛盾があるというのが例の識者の指摘である。要するに、神が「言葉を混乱させた」以前に言葉が枝分かれしているのはおかしいというのだ。

「光あれ」―「光はどこから来たんです?」

この手の矛盾点は実は他にも複数あり、昔から無神論者による揶揄の対象だった。ドストエフスキー最後の大作『カラマーゾフの兄弟』では、スメルジャコフという男が「創世記」冒頭部に矛盾を指摘してせせら笑うシーンがある。スメルジャコフが言うには、「神が光あれといったのは最初の日で、太陽と月と星は四日目でしょ。じゃ初日の光はどこからきたんです?」。そして、それを聞いた彼の養父は一瞬唖然とし、直後にスメルジャコフをぶん殴るのである。

論理的矛盾とテクストの複数性から来る矛盾

ただし、「初日の光がどこから来たのか」というスメルジャコフの指摘は、厳密に考えると「バベルの塔」説話の矛盾とは異なる位相に属することがわかる。両者ともに論理的につじつまが合わない点では共通するが、前者が一つのストーリーの内部での単純な矛盾である一方で、「バベルの塔」の矛盾は、よくよく読んでみると「創世記」の中に複数のストーリーが併存しているために起こる矛盾であることがわかるからだ。

つまり、異なるパースペクティブから書かれた幾つかの物語が同じテクストの中に併存しているために「バベルの塔」説話は矛盾しているように見えるのである。

聖書の英語名Bibleは、元々ギリシア語で「複数の書物」を意味する言葉だった。聖書というのはその言葉どおり複数のテクストが共存しているので、時に相矛盾するような性格をそもそもしているのである。ソ連の文学研究者ミハイル・バフチンの言葉を借りれば、聖書とは極めてポリフォニック(多声的)な構成をしているのだ。

「男から女を作った」のか「男と女に作った」のか

複数の物語が併存する多声的な聖書の構成は、「創世記」の最も有名な部分の一つ、イブの誕生にも見られる。

一般に流布しているのは、「アダムの骨からイブが作られた」というものだ。「創世記」第2章21~22節には次のように書かれている。

主なる神は…人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造りあげた。

一方で、この記述の少し前には、別のストーリーも書かれている。

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

これは「創世記」第1章27節に書かれている。ここでは、「男から女を作った」という物語とは別の「男と女に作った」というストーリーが展開されている。

これらの物語はよくよく考えると矛盾しうるものであるが、「創世記」の編集者達はどちらか片方の物語で内容を統一することはせず、あえて複数の物語を残したのである。

ちなみに、イエス・キリストは「創造主は初めから人を男と女とにお造りになった」と言っている(「マタイによる福音書」19章4節)。キリストは「男から女を作った」というストーリーは取らず、「男と女に作った」という物語を選択した。

男女の不平等が現在よりも遥かに厳しかった一世紀のパレスチナで後者のストーリーを選択することは意味深い。考えてみれば、福音書の多くの場面でイエスは女性を守るがわに立っていたし、彼の周囲には婦人の弟子が多かった。また、イエスが処刑された折、男の弟子たちは(ペトロも含めて)みな逃走してしまうが、女性の弟子たちは逃げなかった。それだけ女性からのイエスに対する信頼が厚かったのである。





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