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読書という形式の限界
最近読書をする量が減ったように感じます。
以前は親書やビジネス書、教育書などを目に付いたら買っていましたが、最近はそれほど購入する機会が減っているようです。
もちろん子供が出来て家でゆっくり読書をするのが難しいというのはありますが、それだけではないようです。
読む本の傾向
自身の読書傾向を考えると、小説や文学作品を読むことはほとんどなく、どちらかというと実用書や啓蒙書系に偏っています。
本を購入する時は書店で手に取って中を読んでみたり、アマゾンの概要やレビュー、SNSでの評判などを決めて購入しています。
このような購入を行う場合、どうしても自分の現時点での考えや主張に近いものを選別しがちになり、書かれた情報も偏る傾向があります。
書店に並ぶ本は似た内容が多い
振り返ってみると、私はある一時期に何冊か本を集中して買って、それを繰り返し読むことが多いようです。
この傾向に加えて近年のベストセラーなどの平積み書のテーマは似た内容が多いようです。
例えば「貧困」というキーワードに対しての本や、学び直しなどを啓蒙する本など、視点や方向性は異なっても扱っているジャンルは似通っていることが多いようです。
(むしろ、話題のジャンルだから複数の本が出版される)
このため私のように気が向いた時期に、自分のアンテナに引っかかるものを買うとどうしても内容がかぶってしまことになります。
活字離れではない
本を読む機会が減ったことで活字離れをしているかというと、それは異なります。
ネット記事を検索したり、無料の論文に目を通す機会は増えたようです。
むしろ、検索を掛けられない従来の本というスタイルよりもより効率的に情報収集は可能となっているため、文字情報自体に接触する量は決して減ってはいません。
空腹を満たすためにかつては定食屋に行っていたが、ファストフードやコンビニで済ませるようになった変化に近い感覚です。
趣味的な読書は依然存在する
おそらく、情報収集の手段として文字情報を活用してた人たちは私のように読書量が減っているのではないでしょうか。
紙の本を読むことは時間を別に作る必要があり、またスマホやPC以外に本を持ち歩くのはなかなかに手間がかかるからです。
一方で読書を趣味としている人たちは依然として本を読んでいるように思います。
特に文学作品などを好む人たちはむしろ装丁や紙の手ざわりまで含めて読書を楽しみとしているようです。
読書は絶対的な解ではない
一昔前は読書を知識を得るための絶対的な解とする向きが強かったように感じます。
しかしそれは本という媒体以外に知識を他者から伝達する手段を持ち得なかったからです。
現代においてはそうした伝達手段としての媒体は複数存在し、読書だけが絶対的な優位性を持っている状況ではありません。
解説や説明動画といった活字を読むことが苦手な人に対してのアプローチも存在します。(とはいえ情報密度は圧倒的に文字情報です)
また、本という形態になるまでのタイムラグで情報が陳腐化するジャンルも増えており、読書という存在はかつての崇高で神格化された立場から引きずり落されたことは間違いありません。
読書礼賛主義的な知識人は多く、おそらく身近なインテリもそうした啓蒙活動に勤しんでいる人は多いはずです。
しかし、そうした懐古主義は往々にして成長を阻む足枷になります。
読書が知識を得る手段としての絶対的な解ではない、という認識を持つ必要はあるのではないでしょうか。