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「巧遅は拙速に如かず」の加速化
学校教育では「丁寧」や「時間を掛ける」ことが非常に好意的に捉える事が多いと思います。
逆に「雑」や「手抜き」は悪評価となり、早く終わることにインセンティブを与えないというのは当然とされています。
「巧遅は拙速に如かず」の出典
この言葉の意味と出典を調べると
こうち【巧遅】 は 拙速(せっそく)に如(し)かず
仕事のできがよくても遅いのは、できがまずくても速いのに及ばない。
〔文章軌範‐有字集小序〕
とあります。出典は『文章軌範』という科挙の参考書のようなものからのようです。
孫氏からの引用という話もありますが、若干内容がずれているので、こちらが本命でしょう。
ビジネスの場面で多用されてきた言葉
この言葉がビジネスで使われるようになったのがいつかはわかりませんが、トヨタのカイゼンという言葉と合わせて出てくることが多いように感じます。
ビジネスの場面においては、一分一秒が組織の命運を分けることもあり、素早い決断と行動を求められるということなのでしょう。
一方で教育現場では
教育の現場においても時間を重視する考え方が無かったわけではありません。
しかし、これまではむしろビジネスシーンにおける過度な「時短信仰」に対して批判的な立場を取り、ブレーキを掛けるポジションであったことが多いのではないでしょうか。
生徒の提出物なども、期限を守ることに対しての指導は強く行いますが、早く出した生徒へのインセンティブを与えた話は聞きません。
教員の働き方改革が遅々として進まない原因の一つに、時間いっぱいにやったフリをする文化が大きく影響しているのではないでしょうか。
これは明らかに、速いことが評価されないとことらか来ているように感じます。
なぜ今更、「巧遅拙速」を謳うのか
では、なぜ今更この話をするかと言えば、これは「共通テスト」の変化から、本格的に教育現場にこの思考の変革がへの要請が強まったからです。
昨年度の「共通テスト」は明らかに「巧遅拙速」的な解き方を要求されています。
大量の文章、玉石混淆の内容から必要なものを時間内に探し出す、整理、分類する情報処理能力など、不確かな状態で判断を下す決断力など、これまで学校文化が「粗野」で「卑賤」であると見下してきたことが要求されているということです。
さらに、AIの進歩がこれに拍車をかけています。
人工知能の発達は人間の生活を変化させることが分かっています。
ただ、人間と人工知能の得意な分野は異なり、0から1を生み出す創造的な行動よりも、1を10にする能力に優れると言われています。
要は、不十分な物の精度を上げる方向に関して人間よりも優れているということです。
そうであれば、0から1を生み出すこと迅速にできる人材や、早い段階で決断ができる人材はその精度が低くとも人工知能によるサポートで精度を引き上げることが可能になるでしょう。
そういった意味で「巧遅は拙速に如かず」は間違いなく加速していくのででしょう。
産業構造の変化と求められる能力
必要とされる能力が変わりつつある、これを教育現場の教員はもっと意識すべきなのでしょう。
実際、産業革命以前は肉体労働のできる頑強な人材が求められました。
これが大量生産時代になり、蒸気機関から、電気式生産設備、コンピュータ管理と移り変わる中で、肉体的な優越よりも、機械や情報端末を扱うことができる能力が要求され、それを教育された人材を求められるようになりました。
情報処理社会化はその流れを加速させ、IT革命となる第4次産業革命からさらに先は、おそらく今までと異なる能力を求められるのではないでしょうか。
学校教育は産業革命以降に発達した制度であるがゆえに、この変化に対して対応できるのかどうか。
まあできなければ、時代にあったシステムを誰かが作ってくれるはずでしょう。
その変化に合わせられるように柔軟になることが、私のような現場教員の最適解なのかな、というこで…