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【題未定】『ドラクエⅢ』が教えてくれた人生の旅~そして再会(リメイク)へ~【エッセイ】

 ドラゴンクエストというゲームには、その中身以上に大きな意味がある。これは世代的にファミコン、スーパーファミコン、プレイステーションとゲーム機の進化と成長期がリンクした世代なら誰もが共感してくれるはずだ。今となってはめったにゲームをしなくなった私だが、小中学生のころはそれこそ毎日のようにどっぷりはまっていた。

 私の家では「ゲームは1日1時間」がルールとなっていて、ゲーム用の旧型テレビには海水浴場のシャワーに設置してあるようなコインタイマーが繋げてあった。ゲームをする場合、そこに100円玉を投入するとテレビの電源が1時間繋がるという具合だ。

 どうしてこんなことを思い出したのかというと、「ドラゴンクエストⅢ」のリメイクが発売され、中高年の間でもヒットしているというニュースを見かけたからだ。我が家にもニンテンドースイッチがある上に、PC版もあるという。ここ数週間、購入をするか否かで頭を悩ませている。

 私にとって「ドラゴンクエストⅢ」は特別な意味を持つゲームである。もちろんゲーム史に残る名作であり、客観的にも特別なゲームではある。だが、私個人にとってはそれ以上に重みのあるゲームなのだ。

 「ドラクエⅢ」が発売されたのは1988年、私が7歳の時だ。当時小学校低学年の私には自分で買うような経済力は当然ない。ところが幸運なことに、住んでいたアパートにゲーム好きの若い夫婦が隣人として暮らしていた。その夫婦がかなりのゲームフリークだったこともあり、いろいろなソフトを借りてプレイしていた。そのため「ドラクエⅢ」も発売からしばらく経ってからプレイすることができた。仲間の名前を登録し、パーティーメンバーを選んで旅に出る体験に胸を躍らせていた。

 この「ドラクエⅢ」のゲーム体験以後、私はRPGを中心にゲームをプレイすることになる。「ファイナルファンタジー」の感動も「クロノトリガー」の高揚感もこの「ドラクエⅢ」なしにはあり得なかったものだ。まさに私にRPGの道を示してくれた存在と言える。

 とはいえ他人のソフト、しかもRPGを自由に遊ぶというのは難しい。特にその当時はセーブデータがすぐ消失することが多く、おいそれと借りるわけにも行かない。必然的に自分で購入したいという気持ちが湧いてくることになる。私の家では誕生日には祖父からプレゼントを買ってもらうというルールがあったため、次の自分の誕生日に買ってもらうことにしたのだ。おそらくは8歳の誕生日あたり、小学3年生ぐらいだった。

 さて、誕生日近くの日曜日、意気揚々とソフトを買いに出かける私と祖父。出かけた先は下通の城屋ダイエー裏別館にトポスという名前で営業していた店舗。その4階あたりのゲームコーナーのガラスケースに入っているのを見つけ、買ってもらった。「ドラクエⅢ」の新品のパッケージを手にしたあの瞬間は心臓の音が他人に聞かれてしまうと思うほど興奮していた。あまりにも嬉しくて祖父からの持っておこうか、という声掛けに「自分で持っておく」と瞬間的に答えた記憶がある。ほんの一秒でも手放したくなかったのだ。

 その後何か所か別の用事で店舗を回り、帰路につく直前の事である。ふと気づくと手に持っていた「ドラクエⅢ」が無いのだ。自分ではずっと手に持っていたと思っていたのに、手の中にはあの箱の感触がない。周囲を見渡しても落ちていない。頭は真っ白になり、祖父と連れ立って寄った場所を一通り見て歩いたがどこにもなかった。店員にも尋ねてみたが、当然ながら見つかるはずもない。その日は泣きながら帰宅したのを今でも覚えている。祖父はそうしたときに慰めの言葉をかけるタイプではなかった。しかしそれだけがむしろ慰めとなっていたかもしれない。

 なぜあのとき預けなかったのか、どうして手放してしまったのか、大事な物なのに。おそらく無意識にどこかに落とした、置いてしまったのだろう。しかしすべては自己責任である。そして「ドラクエⅢ」を見るたびに、「ドラクエⅢ」が話題に上るたびにあの日のことを思い出すのだ。

 「ドラクエⅢ」は様々なことを私に教えてくれた。地道な努力の大切さや芽が無い場合は途中で切り替える柔軟性、諦めずに最後までやり遂げることの重要性。そして、何かに気を取られたすきに大切なものを失う可能性の存在。「ドラクエⅢ」は私にとって良き教師であったのだろう。

だからこそ「ドラクエⅢ」という響きは今も私の耳に響くのだ。さて、今回の同窓会リメイクに参加するか否か。師との再会が良き方向へ進むか、あるいは過去の思い出のままにしておくか、いまだ決心はつかない。

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