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【題未定】かけ算に順序はあるのか?キクマコ参戦〜教育的ルールと数学的真理の狭間で〜【エッセイ】

 突然だが、秋は算数界隈が盛り上がる時期だ、という話をしたい。というのも今秋も毎年のように行われる算数の「かけ算において順序は存在するか」(以下「かけ算順序」)問題がSNSを中心に盛り上がっているからだ。この時期は小学2年生の算数が下巻に入る時期であり、おそらくその手の宿題や小テストが全国で頻発するのだろう。

 知らない人のために確認しておくと、この「かけ算順序」問題とは、その名の通りかけ算のかける数の順序にルールが存在するか、ということを議論するものだ。小学生の教科書などにある「4人掛けのイスが3脚あります。何人が座れますか」の質問に対し「4×3」のみを正解とするか、あるいは「3×4」も正解とするかという問題である。

 そして多くの小学校や初等教育の教員は前者のみを○とする傾向が強い。一方で理系関係者の多数は後者も正解でよいのではないか、ということで議論が紛糾する。

 順序ありの言い分としては「かける数とかけられる数の区別をつける」、「出てくる数値を考えずにかける子供を間違いとする」などの理由が上がってくる。対する順序なし側の主張としては「実数のかけ算は可換である」、「3脚のイス一つあたりに4人ずつ座っているとも考えられる」といったものがある。これに加えて小学校教員からは「算数と数学は違う」などの極論まで飛び出すことになり、議論は平行線をたどることになる。これが毎年のように参加者を変えながら繰り広げられるのだ。

 ちなみに今年の議論の中心となっているのは大阪大学名誉教授で物理学者、テルミン演奏家などの肩書きを持つ菊池誠氏だ。氏が理系研究者の例に漏れず順序なし派として順序あり派を厳しく批判している。

 まず結論から言えば、文科省がどう言おうとも、指導要領にどんなことを書こうとも「実数のかけ算は可換であり、いかなる順番でかけたとしてもその式が間違っているとは断定できない」ということになる。これは数学的な事実であり、否定できない唯一の真実である。

 もちろん順序あり側の言い分を理解しないわけではない。文章題において深く考えずに出てきた数値をそのままかけて答えとする児童が一定数存在するのは目に見えているからだ。しかしこうした児童を間違いとするために原理原則を変更すること、あるいは原理に強引な解釈をする方がよほど罪深いはずだ。

 この問題においては「かけ算順序」を普遍の真理として扱うのではなく、あくまでもその教員や当該範囲におけるテストの「お約束」として共通認識を持たせるというやり方でなければならない。少なくとも真っ向勝負の議論であれば旗色が悪いのは自明なのだ。

 私は中等教育に関係する職業上、初等教育におけるある種の誤魔化しを全否定するつもりはない。小学校において若干のローカルルールは許容されてもよいだろう。それは理解や接続のハードルを下げるため、あるいは指導者側の都合によるものかもしれない。しかしいずれにしてもそうしたものが便宜的に存在しても、実務上やむを得ないのではないかと思うのだ。

 しかし一方で数学の魅力の一つは、低学年で触れた公式やルールが高度な数学に入ったとしてもほとんど問題なく成立するという拡張性の高いところにある。かけ算順序のような便宜的なローカルルールを多用すればそうした上位概念への接続において、生徒の興味関心を最もそそる部分を棄損する可能性を危惧もされる。したがって、この「かけ算順序」問題に関して私の結論は以下のようなものとなる。

 便宜上、小学校における順序を許容はするが数学徒としては精神的に受け入れられる考えではない。またそれが上位概念へのハードルを高める危険性もあるだろう。したがって順序あり派の人はそのルールがローカルなものだと認識した上で周知を図って使用すべき、またその点を疑問や指摘を受けた場合もローカルルールであることを自覚して無理筋な論理で対抗すべきではない。

 繰り返しになるが、実数の乗算における可換性は絶対普遍の真理である。これは算数だから、という理由で覆されるものではない。一旦数式として書かれた以上、そうしたルールを反故にするのは学問的にあまりにも危険な行為である。これが教育的配慮という名の詭弁をもって数学という学問の根底を揺るがす行いであることを、順序あり原理主義者は自覚すべきではないかと思うのだ。

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