学校の課題としての「書初め」不要論と学校教育における「習字」の存在意義
冬休みに宿題が出る学校は多いと思います。
特に小学生は多様な宿題が出ているようです。長期休暇の日記や図画工作の制作、作文などいろいろな宿題が出るようです。
その中でも正月色の強い宿題が「書初め」です。
「書初め」の宿題とは
「書初め」を知らない人は少ないとは思いますが、一年の抱負や目標を習字の字として書き、心を新たにするというものです。
学校の宿題として出される「書初め」は一般的には全員に決められたお題を書かせ、その練習を宿題とするものです。
さらに、大抵の場合はその練習の中で出来の良いものを新学期に持参し、提出します。
それらは教室に貼られ、教員から評価を受け、場合によっては校内外の作品コンクールで表彰を受ける、という流れになります。
自分の経験で言えば、この教室に貼られることが非常に不快だった記憶があります。
私は字が上手くないため、書道の時間自体が苦痛でした。
自分でも不格好だと思う字を教室に掲示され、低い評価を受けるのは何とも居心地の悪い思いをしました。
とはいえ、それ自体をもって批判するつもりはありません。得意教科の有無で大なり小なりそうした思いをするのは仕方がないからです。
しかし、「書初め」の場合、自分の決意や思いとはかけ離れた言葉を書かせられるという、極めて義務的な作業でした。
「習字」と「書道」
「習字」は字を学び美しく書けるようになること、「書道」は毛筆で自身の内面や思いを表現する、ということを目的とします。
また、副次的な効果として精神修養なども目的とすることが多いようです。
それ自体の目的は否定しませんし、字を上手く書けることになることは十分に意味のあるものでしょう。
しかし、義務教育で今ほどの時間をかけて「習字」を学ぶことに意義のある行為なのか疑問が残ります。
なぜならば、現実に毛筆で何かを書くということが実生活においてほぼ無いからです。
それどころか、大半の書類はPCなどのタイプ入力がほとんどで、印刷どころか紙書類を扱うことがほとんどなくなりました。
もちろん、歴史的経緯や文化体験としての意義は存在します。
ただ、宿題として家で練習するほどの価値があるのでしょうか。
それぐらいならば、手書き練習はボールペン字を学ぶ方がよっぽど意味があるとも思うのです。
ここで注意すべきなのは、個人で「書道」を学ぶことは、それとはまた異なるものです。
ピアノなどの楽器やダンス、バレエなどを学ぶことと同じで、価値を見出す人達が自費で取り組む趣味的なものです。
もはや現代社会においては、「習字」は社会における必然性を失い、「書道」化していると言えるのではないでしょうか。
学校課題としての「書初め」不要論
「書初め」という行為は、自分の決意を可視化し、行動を促すことを期待して行うものです。
そうした意味では、非常にプライベートな行為であり、誰かに見せて評価を受けたり、誰かと同じ文字を書いて点数を競うようなものではありません。
また、家で行う「習字」においては家庭での指導が望めないケースが多く、字を美しく書けるようになるという効果も薄いのではないでしょうか。
もちろん、こうした考えはあくまでも私個人の価値観であり、例えば精神修養的な意味を重く考える人もいるでしょう。
とはいえ、これまでの時代と比較して手書きの価値は相対的に低下し、今までと同じ価値観は改める時期に来ています。
仮に「書初め」、あるいは「習字」に価値を見出すのならば、何らかの新しい意味を付加させる必要はあるのではないかと思うのです。