「やった方がいい」ことはしない主義
ここ数年、自分自身が心がけていることがあります。
それは「やった方がいい」ことをしないということです。
「やった方がいい」のならばやるべきではないか?
こんなふうに書くと、「やった方がいい」のならばやるべきではないのか、と思う人も多いでしょう。
その主張は最もです。なんせ「やった方がいい」わけです。
やらないよりもよいのでしょう。しかし、現実には費用や時間、体力には限界があります。
そんな限られた状況で、私達は「やった方がいい」ことをするだけの余剰なエネルギーを保っているのでしょうか。
自分自身の行動指針
そこで、私は自分の行動に関して以下の3つに分類して考えることにしています。
やらなければならないこと
やりたいこと
やった方がいいこと
1.やらなければならないこと
これには仕事や家事、育児などが入ります。誰かから委託されたり、自分の責任において行う行動です。
これらは自分の意思と無関係に義務として発生します。
当然、しなければ家族や友人、同僚や生徒などに迷惑を掛けてしまいます。また、私自身それを原因で迷惑を掛けたくないと感じているものでもあります。
これらに分類されるものは優先的に行います。
2.やりたいこと
やりたいことは趣味や自己研鑽などが当てはまります。
YouTubeを見たり、音楽を聞いたり、アニメを見たり、読書をしたりも当てはまります。
またこうしてnoteを書くことも含まれます。
やりたいことなのですから、当然実行するのですが「やった方がいい」ことに無意識に変わっていないかは常にチェックをしています。
3.やった方がいいこと
これは分類が難しいのですが、職場での不必要な気遣いや付き合い、配慮などが当てはまります。
私は職場で生徒や他の教員が困っている場合、基本的に手を貸すことが多いです。それは自分自身が「やりたい」と感じているからです。
ただ、当然そう感じない場合もあります。相手やシチュエーションによってかもしれません。
そして、そうしたときは絶対にしないことにしています。
なぜならば、「やった方がいい」ことは基本的にやらなくてもマイナスにならないからと考えているからです。
「やった方がいい」ことの例とそれをしないデメリット
無駄な残業や飲み会、職場での付き合いなどがこれになるでしょう。
職業柄、過度な予習や教材研究もここに含まれます。
また、冠婚葬祭なども必要最低限に行くことを決めています。
それをしないことで、誰かかの好感度を下げたり、嫌味を言われることはもちろん存在します。
特に「やった方がいい」教の信徒は私のような人間を弾圧する傾向があります。おそらくは自分自身へのフラストレーションを他者に投影し攻撃しているのでしょう。
大胆に分類し、定期的に入れ替えを行う
やりたいことを行うための時間や労力を「やった方がいい」ことに割くことでやりたいことができなくなるのは本末転倒と思います。
もちろん、「やった方がいい」ことをすることは重要なのですが、それを義務的な感覚で行っても効果が上がるとは思えません。
また、「やった方がいい」ことは常にやるか、やらないかを考える必要に迫られるため無駄に思考と逡巡、決断をしなければなりません。
これは明らかにエネルギーのロスでしょう。
逆にどうしても「やった方がいい」と感じていて内心と他者の評価のズレが気になるのならば、「やりたいこと」となる余地はないか、職務上、義務は発生しないかを考えて分類を入れ替えることを習慣にしています。
ちなみに私の中で優先席を譲ることは「やらなければならないこと」ことに分類しています。だから迷うこともなく、疲れたりしません。
もう、「やった方がいい」ことで疲弊するのは「やめた方がいい」のではないでしょうか。