【題未定】日本語教育の限界:感想文と道徳教育に縛られた文章力の低迷【エッセイ】
「最近の」という枕詞をつけるまでもなく、子供は文章を書くのが苦手である。もちろん例外はいくらでも存在するが、それを上げても意味は無い。全体的な傾向として、文章を書くことができないということだ。
この「文章を書けない」というのはもちろん比喩的な表現だ。実際には字数を埋めることができる子供は学齢や学力に伴ってそれなりに存在するからだ。しかし高校生や高学力の生徒であっても、自分の伝えたい内容を論理的に順序立てて書けるかというとこれはかなり怪しい。そうした意味で「文章を書けない」ということになる。
こうした傾向の原因は明らかだ。日本の教育において、論理的な文章の書き方、文章学や修辞学に関する授業が存在せず、あくまでも見様見真似と繰り返しによる文章の書き方しか習わないケースがほとんどだからだ。もちろんそうではない指導をしている現場教員がゼロであるとは言わないが、小学校、あるいは中高における国語の授業でこうした文章の書き方と実践方法を学ぶ機会は極めて少ないだろう。
その代表格が感想文や日記という課題の存在だ。これらはそもそも何らかの主張をする内容ではない。したがって文章的な巧拙や修辞的な技法よりも、感覚的な捉え方、共感性などを評価の中心に置かれがちだ。この傾向は初等教育においては特に顕著であり。要は文章そのものの出来よりも素直で率直、真面目で勤勉という様子を順番に羅列しておけばそれなりの評価を受けてしまうのだ。
この原因は日本の国語教育が道徳教育や芸術鑑賞と一体化しているところにある。そしてこの根本にあるのが、日本人ならば日本語が読める、書けるであろうという幻想だろう。
日本語は習得が難しい言語である。ひらがな、カタカナ、漢字の表音、表意文字の三種類、加えて音訓読みの入り乱れた表記を読み解く必要があるため、単一文字の言語体系の人が非母語として学習をする場合には非常に困難である。一方でこれは日本人が優秀であることを意味するわけではない。言語体系上、厳密なルールよりも慣習が多いため母語として学習する場合、その困難性は大きく低下するからだ。
この日本語の特徴こそが文章を書く上で問題となる。日本語話者は文字が十分に読めれば、最低限の文章が書けるという状態になるためだ。要は論理的に整理されたレベルを求めない限り、それなりに読解が出来れば文章として読むに堪えるレベルの文章を書けてしまうのだ。したがって感想文レベルの論理性であれば細かく考えずに書き出すだけで形式は整ってしまうということになる。必然、評価は内容、道徳、芸術性を問うことになるわけだ。
かつてはこの論理的な文章の筆記術が大学における学びの大きな命題であり、高卒と大卒の最も大きなスキル的な差であっただろう。そのプロセスとしての論文指導こそが大学における学びの最大の価値だった。
しかしここ20年ほどの改革、大学における学びが学問の発展や必履修教科の増加によりその余裕がなくなってしまった。また大学進学率の増加から入学者のすそ野が広がったことで論文指導に入ることのできない文章力の学生の割合が増加した。その最低限のスキルの有無の確認が近年の入試における小論文課題の存在の意味でもあるのだ。
昨今における教育課題の最も大きなものはこの文章作成に関わるスキルの習得だ。これは入試だけでなく、社会生活を営む上でも重要な技能だからだ。それこそAIへの指示、プロンプトの書き方などは論理性を求められることになるだろう。論理性の低い文章しか書けない人間はAIさえ自由に使いこなせないのだ。
だからこそ、論理的に筋道を立てて書くこと、パラグラフライティングやトピックセンテンスなどの最低限の意味を理解して活用することは高校卒業までに身につけるべきである。そのためにも日本語、文章を書くという技能を真剣に見直してのカリキュラムの作成は学校教育の急務でもある。
文章作成に関してはもはや「国語」という教科から独立させる必要もあるだろう。既存の枠組みの中では指導が立ち行かない現状が既に存在しているのだ。日本語文章作成という枠組みを学校教育の中に新たに立ち上げることがこうした文章力問題の解決の一手段となり得るのではないだろうかと愚考するのだ。