太宰治と三島由紀夫の共通点と相違点〜道化と美〜
こんにちはSHOです。僕のnoteを読んで頂きありがとうございます。
今回は【太宰治】【三島由紀夫】という昭和の文豪について生涯を振り返るとともに色々と考えていくことにします。この文章は敬称略で書いていくことにします。
これは、三島由紀夫が「太宰治を囲む会」に顔を出したときの話です。この会の主役である太宰治に対していきなり 「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」 と言い放つのです。
太宰は当時37歳、三島は当時21歳。三島は文壇デビューはしたもののまだ学生です。当時人気の太宰に対してわざわざこれを言うために目の前に行くわけです。
このシーンって最近映画化された小栗旬さん主演の「人間失格」という映画の中のワンシーンにもあった気がします。それほど、このシーンは有名なのです。
太宰治と三島由紀夫。この2人には共通点があります。いや、多すぎるのです。
じゃあ、この2人が送った人生は同じようなものなのかというと、全く違う人生を送っているのです。
え?なんで?
なんでこんなに違う人生になったのでしょうか。
今回、これを書かせていただく理由は【言葉の力】を改めて考えた時に、昭和の文豪の作品にとても惹かれたのです。文章だけで、言葉だけでこんなに人を惹きつけるなんてどれだけすごいんだろうかと。
僕のnoteを読んで、太宰治や三島由紀夫など、この時代の文豪の作品を今一度読んでほしいなと思い、興味を持ってほしいと思い、今回はこの2人の生涯について触れていきたいと思っています。
長くなりますが、ご興味がある方はこの先も読んで頂けると嬉しいです。
○太宰治の人生
はじめに。
ぱっと見でこれを見たら「なんてひどい男」なんだと思うかもしれません。
・自殺未遂4回
・薬物中毒
・借金苦
・女たらし
・最終的に自殺
太宰治を語る上で大事なキーワードは【道化】です。何も知らず上に挙げた5つだけを見れば「ひでぇ」になるかもしれないのに、知れば知るほど「じゃあ、私はいったいどうなんだろうか?」と考えさせられるのです。
今現在、こんなに考えさせられる有名人なんていない気がします。生涯だけじゃなく、これを小説にして自分のことを書いているような作品(人間失格)のようなものを執筆するんだから、凄すぎるんです。
というわけで、早速書いていきます。
太宰は1909年(明治42年)、青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)に生まれます。大所帯で六男として生まれます。太宰が生まれた時には10人兄弟でしたが、のちに弟が生まれたので11人兄弟の10番目ということになります。太宰が生まれた家は当時の青森では4番目の大富豪だったとも言われています。家には約30人ほどの使用人がいました。
本名は「津島修治」といいます。後でも触れますが「太宰治」というのはペンネームです。
太宰の父親は議員(貴族院議員)ということもあって仕事で忙しく、母親は病弱で、幼少期は乳母や叔母に育てられました。
そう、ここサラッと書いたのですが太宰は両親からしっかりと愛情を注がれずに育ったのです。これは三島との大きな共通点ですので覚えておいてください。
太宰は幼少期からとても頭が良くて、通っていた小学校では「開校以来の秀才」とも言われていました。他の兄弟は出来・不出来にかかわらず「大地主の家の子」というだけ成績が「オール5」になっていたのですが、太宰だけは「本当にオール5」の成績だったようです。特に文才で高く評価されていました。
小学校は主席で卒業し、1923年(大正12年)14歳の時に父親が亡くなり、長男が家督を継ぐことになります。この頃から太宰は芥川龍之介や志賀直哉、伊伏鱒二らの小説を読むようになります。そして、1926年(大正15年)、17歳の時に友人らとともに同人雑誌「蜃気楼」を刊行します。蜃気楼は、太宰自身の作品を掲載するだけではなくて、編集や表紙のデザインまでも手がけています。
1927年(昭和2年)、18歳の時に中学校を卒業。その後高校に入学します。太宰は中高通じて書き記した習作は200篇にも及ぶと言われています。
勉強はかなり出来た太宰なのですが、この年に尊敬する作家である芥川龍之介が35歳という若さで自殺をしてしまいます。太宰は芥川の大ファンだったので大きなショックを受け学業がままならなくなってしまいます。
またこの頃、「義太夫」という伝統的な劇場音楽を習い始めます。義太夫とは江戸時代前期に竹本義太夫という人が始めた三味線を伴奏楽器とした歌詞やセリフを語る劇場音楽のことです。
芸者遊びを覚えた太宰は、青森の料亭で15歳の芸妓「小山初代」と知り合い、深い仲となります。いわゆる愛人ってやつです。太宰は女性と関わることが多いので、この先も女性が何人も登場してきます。
1929年(昭和4年)、20歳の時に高校の校長が公金を無断使用したことをきっかけに学生ストライキに参加します。それにより校長を退職に追い込みます。太宰はこの頃から左翼思想に傾斜し、12月10日深夜に多量の睡眠薬(カルモチン)を服用し最初の自殺未遂をおこします。
え?ここで?と思った方もいらっしゃるでしょう。え?ストライキに参加したことで自殺未遂?というわけではありません。この時の自殺未遂の理由は「資産家の家庭生まれという自らの出身階級と、自らの思想の違いに悩んでいた」と言われています。
1930年(昭和5年)に高校を卒業、小中学は成績優秀でしたが、高校ではそこまで…といったところです。大学は東京帝国大学(現在の東京大学)に入ります。高校は英語専攻だったのですが、大学は仏文科に入ります。この頃から、かねてからの尊敬していた作家である井伏鱒二と会い、小説家になるために弟子入ります。また、左翼活動も積極的に行うようになっていきます。
また、秋頃に以前青森で出会って関係を続けていた「小山初代」と結婚しようとして上京させます。ただし、これは故郷青森で大問題になります。資産家の息子が芸妓を東京に呼び寄せたと知れ渡り、長兄の結婚には大反対をします。
2人が同棲を始めると長兄は上京し「結婚してもいいが本家から除籍する」と言い放ちます。その結果どうするかというと、太宰は津島家除籍を条件に初代と結婚するのです。結納のために初代は長兄とともに青森に帰ります。
ここからどんどん驚きの連続が起こっていきます。まだまだ序盤です。
結納の日の翌日、太宰は銀座のカフェの女給で18歳の「田部シメ子(田部あつみ)」と出会います。この子と3日間浅草観光などをして一緒に過ごした後、11月28日夜、神奈川県小動崎(こゆるがさき)の畳岩の上で睡眠薬(カルモチン)心中を図ります。これ、2回目の自殺未遂です。
田部シメ子は理知的で明るい美人の人妻だったと言われています。夫は無名の画家で、太宰と出会った時に夫は失業中で、銀座のカフェへ働きに出ていたのです。夫が失業中ということで、精神的にも肉体的にも落ち込んでいた田部シメ子の心情と本家から絶縁された太宰の苦しみが一致し、お互いに死の道を選んだとされているのです。
心中を図った翌朝、地元の漁師に発見されるのですが、田部は間もなく死亡、太宰は現場近くの恵風園療養所に収容され、一命を取り留めます。
これにびっくりしたのが津島家の長兄です。「おいおい何やっちゃってるのよ」です。すぐさま津島家の番頭を鎌倉へ送り、番頭は田部の夫に示談金を渡したり、太宰の下宿にあった左翼運動に関する大量の秘密書類を、警察の調査前に焼却したりと色々動き回りました。本当にお疲れさまです。
また、太宰は「自殺幇助罪」に問われたのですが、これも兄たちの尽力あってか起訴猶予となるのです。本当に色々迷惑をかけます。
これ…田部シメ子の旦那の想いっていかほどなんでしょうかね。出会って3日目の男と一緒に死のうとした妻の気持ち….僕ならどうなるんだろう。
翌月、太宰は地元青森で小山初代と仮祝言をあげます。長兄は初代を芸妓の境遇から解放し上京させて2人を応援します。ちなみにこの2人は籍は入れていないのです。
ただ、長兄は太宰の左翼活動をずっと警戒しているのです。結婚の際に本家から絶縁するようにさせたのも、自身が議員や知事の職に就いているし問題になると困るからだとも言われています。
長兄の思いとは逆に、太宰はどんどん左翼活動には積極的になっていきます。1931年(昭和6年)、太宰が22歳の時に帝国主義・戦争反対を掲げた反帝国主義学生同盟に加わります。大学にはほとんど行かず、転々と居を移しながらアジトを提供し、ビラ撒き、運動へのカンパなどを行なっていきます。太宰が用意したアジトで機関紙の印刷や中央委員会が開かれました。
翌年の1932年(昭和7年)、太宰が23歳の時に青森の実家に警察が入り、太宰の行動を問いただしたことで、左翼活動がバレます。これに長兄は激怒し、今までは本家から除籍しても仕送りなどの支援をしていましたが、太宰に対して「青森警察署に出頭し左翼運動からの離脱を誓約しない限り、(仕送りを停止し)一切の縁を絶つ」という手紙を送ります。
そして太宰は長兄と同伴で青森警察署に出頭し、取り調べを受けて3年間の左翼活動から離脱します。これも太宰にとっては大きな出来事で「組織の仲間を裏切った」という後ろめたさを感じながらこの先も生きていくことになります。
以後は井伏鱒二の指導もあり、文学に精進し、檀一雄や中原中也らと同人雑誌を創刊、『思い出』を始めとして、堰を切ったように執筆活動を開始します。今までは色んなペンネームを使い分けていましたが、1933年(昭和8年)から【太宰治】に統一します。
それから執筆活動に励むことになるのですが、1935年(昭和10年)太宰が26歳の時、授業料未納で大学から除籍されます。都新聞社の入社試験にも落ち、3月16日夜、鎌倉八幡宮の山中にて首吊り自殺を試みますが、失敗に終わっています。これが3回目の自殺未遂です。「え…また?」と思う方もいらっしゃるかと思いますが、太宰は自殺未遂を2年後にまた起こすことになります。
その直後、盲腸炎から腹膜炎を併発し、入院先で鎮痛のため使用した麻酔剤(パビナール)をきっかけに薬物中毒になってしまいます。
同年、純文学の新人に与えられる「芥川賞」が創設されることになります。太宰は『逆行』により第一回芥川賞の5人の候補者に入ったのですが、結果は石川達三が受賞し太宰は次席。要するに太宰の作品は芥川賞に選ばれなかったのです。
選考委員の1人である川端康成は「作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあった」と太宰のことを評します。要するに、私生活がだらしがなく、才能はあるけど良い作品を書けていないというのです。
これに太宰が激怒します。「私生活と作品は関係ないだろう」と思う人もいるかもしれません。でも、川端のこの指摘は当たっているのです。今までこれを読んで頂いている方なら分かるはずです。
これは一部なのですが、川端の作品を皮肉って反論しています。ただただ暴言を吐いているのではなく、川端に対する敬意を評しながら「なんでダメなんだー!」というような心からの叫びも含まれています。芥川龍之介を尊敬していたのもあるのですが、とにかく太宰は芥川賞をとりたかったのです。
この話はまだ続きがあります。諦めきれない太宰は“遺書のつもりで書いた”という作品集『晩年』を刊行、芥川賞の選考前に川端へ手紙とともに本を郵送します。
この手紙は前年に送った反論のような内容とは異なり、とにかく必死に懇願するようなもの「何としても芥川賞を取りたいのです」というものだったのです。
また、この頃師事していた佐藤春夫には長さが4mにもなる手紙を送っていました。佐藤も芥川賞の選考委員だったのです。
なぜ、太宰がここまで芥川賞受賞に執着していたかというと、上京以後、心中事件で相手(田部シメ子)を死なせてしまったり、芸伎(小山初代)と結婚したり、非合法活動(左翼活動)に係わったり、大学も卒業出来ず(授業料未納)、就職に失敗するなど、故郷の実家に数々の迷惑をかけたことから、芥川賞の受賞で名誉挽回を果たそうとしたのです。それに薬物中毒でかさんだ薬屋の借金を払う為にもどうしても賞金が必要だったのです。
結果どうなったかというと、選考の過程で「すでに新人に非ず」と最終候補から外され、芥川賞をとることはできませんでした。これに太宰は深く打ちのめされます。
同年の秋、太宰は薬物中毒がどんどん深刻化し、心配した井伏鱒二ら周囲の者は太宰に“結核を療養しよう”と半ば騙すような形で、武蔵野病院の精神病病棟に入院させます。その甲斐もあってか、1ヶ月後に完治し退院することになるのですが、太宰はこの入院生活で「自分は人間とは思われていないのだ、自分は人間を失格してしまっているのだ」と深く傷つきます。この経験は自身の著書「人間失格」にも繋がっていきます。
また、太宰が退院してから妻の初代から入院中に他の男と間違いを犯したことを告白されます。これにショックを受けた太宰は、1937年(昭和12年)、28歳の時に初代と谷川岳山麓の水上温泉で睡眠薬(カルモチン)自殺を図りますが、今回も未遂となります。これが4回目の自殺未遂です。これを機に初代とは離別します。
しばらく筆を絶つほど落ち込んでいましたが、井伏は太宰のすさんだ生活を変える為に、自分が滞在していた富士のよく見える山梨県御坂峠に招待します。こうした気分転換が功を奏し、徐々に太宰の精神は安定していきます。
1938年(昭和13年)、29歳の時に井伏の紹介で、地質学者石原初太朗の四女で高校教師の石原美知子とお見合いし、婚約します。翌年に2人は結婚をすることになります。美知子は太宰が生涯で1番愛した女性だとも言われています。東京の三鷹に引っ越し、この先ずっとここに住むことになります。
結婚をきっかけに精神が安定し、「女生徒」「走れメロス」といったような有名な作品を世に出していきます。また美知子との間には3人の子どもを授かることになります。特に「女生徒」は川端康成から高い評価を受け、執筆依頼が増えていきます。
このまま順調に…というわけにはいかないのが太宰の人生。
1941年(昭和16年)、太宰が32歳の時に歌人で作家の太田静子から弟子入りを懇願され受け入れます。ちなみに太宰は美知子と結婚をしています。なのに、静子を家に招いているのです。太宰は美知子の目を盗んで静子と逢瀬を重ねていくのです。もちろん美知子は関係を疑うようになります。静子は今後の太宰作品にも影響を与えることになります。
ちなみに日本はこれから戦争の時代(太平洋戦争)に突入していくのですが、戦中も「津軽」「お伽草紙」「新ハムレット」「右大臣実朝」などの作品を創作しています。終戦は青森の実家で迎えます。
1947年(昭和22年)、太宰が38歳の時に「斜陽」を発表します。この作品は、戦後の太宰の実家をモデルとして、上流階級の没落を描いた作品ですが、この作品の主人公のモデルは静子だったと言われています。斜陽の1章〜5章までは、静子が普段書いていた日記が元だと言われているのです。この作品は大ヒットするのですが、色んな問題となった作品でもあります。
どういうことかというと、戦争中は美知子の実家の山梨や津島家の実家青森に疎開していたので会えなかったのですが、戦後に静子と再会して「小説の材料として静子の日記を提供してほしい」と頼んでいるのです。その際に静子は太宰の子を身籠るのですが、その後太宰の態度は冷たくなっていく一方で「自分に接近してきたのは小説の材料だけが目当てだったのではないか」と疑うようになっていきます。
同年11月に静子は出産し、名前を「治子」とします。太宰はこの子を認知し自分のペンネームから1文字とってこの名前としているのです。出産の時に太宰はもう静子のそばにはいません。静子の弟の働きかけによって認知まで至っているのです。
なぜ、太宰は冷たくなってしまったのでしょう。それには色々な理由があるのでしょうが、同時進行で同年、もう1人の女性と出会っています。
美容師の山崎富栄です。
太宰は三鷹のうどん屋台で飲んでいる時に富栄と出会います。出会った時には太宰の作品を一度も読んだことがありませんでしたが、出会ってすぐに好感を持ったようなのです。富栄の日記には「愛してしまいました、先生を愛してしまいました」「戦闘開始!覚悟をしなければならない。私は先生を敬愛する」というような情熱的な文章が綴られています。
同年の5月、太宰は富栄に対して「死ぬ気で恋愛してみないか」と持ちかけます。これもすごいことです…美知子もいて静子もいて…美知子とは結婚もしているわけだからね。ただ、それに富栄は応えるのです。その後結ばれて深い関係となっていきます。献身的に世話をする反面、とても嫉妬深かったとも言われています。
この頃の太宰は『ヴィヨンの妻』『おさん』なども発表し、名声と栄光に包まれていたのですが、1948年(昭和23年)、過労と乱酒で結核が悪化し、1月上旬に喀血します。富栄の懇親的な看病のもと、栄養剤を注射しつつ5月にかけて、人生の破綻を描いた『人間失格』を執筆します。
そして、同年6月13日深夜、太宰は机に連載中の『グッド・バイ』の草稿、妻に宛てた遺書、子どもたちへのオモチャを残し、山崎富栄と身体を帯で結んで自宅近くの玉川上水に入水し自殺します。そして、6日後19日(偶然にも太宰の誕生日)に2人は発見されます。太宰は39歳で人生の幕を閉じたのです。
最後に、太宰の手紙、富栄の手紙内容の抜粋について載せます。
どうでしょう、太宰の生涯を見ると「??」と思うところはたくさんある気がします。
太宰の生涯を語る上で外せないところは「母親からきちんと愛情を受けずに育った」というところです。太宰の家は大所帯で父は仕事で忙しい、母は病弱で乳母や叔母に育てられたのです。これが大きな原因で生涯通じて「愛されたい」ということを異常に求めます。ナルシストな面もあり、何か辛いことがあると酷く落ち込み自殺まで考えます。実際、4度の自殺未遂を起こしているのですから。過剰な自己愛があるのです。僕はまさに、太宰は今で言うなら「自己愛性パーソナリティ障害」というものだと思うし、自らを「道化」すなわち別人格を作り出していたような面もあるので「境界性パーソナリティ障害」もあったのではないでしょうか。
太宰と関わった女性もどこか「闇」を持っている方でした。正式に結婚もしている美知子は別として、小山初代、田部シメ子、太田静子、山崎富栄は批判を恐れずに言うならば、何かどこかで太宰の「闇」の部分と共鳴するようなところがあったのではないでしょうか。
太宰の作品を読むと、こちら側(読み手)が考えさせられるものが多いです。僕は太宰のどこか人間っぽいところ、弱さに魅力を感じてしまいます。確かに堕落しているところもあるし、何でそんなことをするのか理解に苦しむところもあります。だけど、どこかで自分に何かを問いかけてきている気がするのです。「あなたはどうなんだ?」みたいな。
1つ1つの出来事について「なぜ、このような行動を取ったのだろうか?」と考えたくなります。長くなりますので、今回はこの辺でおしまいにします。
○三島由紀夫の人生
初めに申し上げたいのは、僕は三島由紀夫の話し方が好きです。たとえ相手がどんな相手だろうと、自分の考えや言葉を丁寧に話す。素晴らしいなって思っています。
小説家だけではなく政治活動も行っていました。三島由紀夫と聞いて思い浮かべるのは、東大全共闘との討論だったり、三島事件のことかもしれません。
どのような生い立ちで、どのような人生を送ったのか。見ていくことにします。
1925年(大正14年)1月14日、東京市四谷区永住町(現在の東京都新宿区四谷)で生まれます。父・平岡梓、母・倭文重の長男として生まれました。父は国家公務員、母は開成中学校校長の娘ということで、エリート家系です。三島由紀夫はペンネームで、本名は平岡公威といいます。生まれた時は2400gの未熟児でした。
三島の人生に決定的に影響を与えたのが、学習院中等科に入学するまでに入学するまで同居していた父方の祖母の夏子です。ここ、サクッと書いたけどかなり重要なところです。
三島が生まれて49日目に、「二階で赤ん坊を育てるのは危険だ」という口実のもと、夏子は三島を両親から奪い自室で育て始めます。母が授乳している時も懐中時計で時間を測っていたと言われています。
え?なんで??なんでこんなことするの???
って思う人がいるかもしれません。夏子っていうおばあちゃんは何者なんだっていう話です。
夏子は家族の中でも威厳をふるっていて、家族の中でも恐れられている存在だったのです。夏子の父親(三島の曽祖父)は大審院判事、今でいう最高裁判所判事です。そして、夏子の母(三島の曽祖母)は江戸時代後期の大名である松平頼位の三女で、夏子は母の縁で「有栖川宮熾仁親王」という日本の皇族のお屋敷に行儀見習いに行っていました。そう、もうお分かりのとおりすごい家柄なのです。
そんな背景もあってからか、家庭内では夏子の立場が非常に大きかったのです。
などなど。ただ、三島は夏子の影響を受けて歌舞伎を観たりだったり小説をたくさん読んだりすることになります。これも三島の人生に大きな影響を与えることになります。夏子は過剰な過保護でしたが悪いことばかりではないのです。
1931年(昭和6年)、三島は学習院初等科に入学します。三島を学習院に入学させたのは夏子の意向が強く働いています。学習院は上流階級の子女のみに入学が許されていたものの、平民階級の三島が入学を許されたのは夏子の縁故があったからだと言われています。
ただ、当時の学習院は「質実剛健」であり、小柄で病弱だった三島はいじめにあっていました。主治医の方針で日光に当たることを禁じられていたこともあり、日影を選んで過ごしていたため、虚弱体質で色が青白く「アオジロ」と言われていました。これは三島の生涯のコンプレックスとなります。
祖母の影響でこの頃とにかく本をたくさん読み、文学の才能を身につけていきます。6歳で俳句を詠み、詩を書いたとも言われています。三島が書いた作文があまりにすごくて「盗作じゃないのか?」と疑われたこともあるそうです。
1937年(昭和12年)、学習院中等科に進学します。両親の転居に伴い祖父母のもとを離れて暮らすようになります。もちろん夏子は悲しみますが、1週間に1度会うことを約束にします。
1941年(昭和16年)1月、父が単身赴任先の大阪から帰京してきます。相変わらず文学に夢中の三島を見かねて、原稿用紙を片っ端からビリビリと破いていきます。三島由紀夫と父の文学活動を巡る争いは、大学卒業後まで続きました。
三島は中学に恩師である清水文雄に出会います。三島のクラスを担当していた国語教師で、三島の才能に注目します。同年7月に三島は「花ざかりの森」を発表し、清水に見せます。作品に感銘を受け雑誌「文芸文化」の編集会議に作品を提出し、掲載が決定します。
ただ、父親が息子の文学活動を反対していることや、まだ三島が16歳ということで将来を案じペンネームを使用することを勧めます。そこで与えられた名前が「三島由紀夫」なのです。今までずっと「三島」と表記していましたが、三島由紀夫を名乗るのはここからなのです。
1942年(昭和17年)、三島は学習院高等科に進学します。専攻はドイツ語で成績は優秀、運動は苦手だったものの主席で卒業することになります。
そして、1944年(昭和19年)、東京帝国大学法学部法律学科 (現在の東京大学)に入学します。翌年、戦地への出征要請が届くが、当日熱があった三島は軍医が肺浸潤(結核の三期の症状)と誤診され、即日帰郷となってしまいます。
三島は戦死を覚悟していたのですが、自身の虚弱体質から来る気弱さなどが生涯のコンプレックスになっていきます。常に死と隣り合わせの感覚だったり、戦後のことを「余生」と捉えるようになります。本人も「特攻隊に入りたかった」と言っていたのです。
また、大学生の時に2つの悲しい出来事があります。
1つは妹が菌を含んだ生水を飲んだのが原因で17歳で亡くなってしまったことです。もう1つは、結婚をする予定だった相手が別の人と婚約をしてしまった、要するに横取りされてしまったのです。
ただ、この二つの出来事が、文学的情熱を推進する力になったのです。
1946年(昭和21年)、三島は太宰治のパーティに参加します。三島が太宰と会うのは生涯1度きりです。冒頭に書いたのがこれであり、また別途これは書きます。
また、川端康成にも会っています。川端は終戦前から三島の作品を読んでいました。戦争の混乱で自身の作品が掲載されるはずの雑誌の出版が滞り焦っていて、新作の原稿を持って川端の自宅に行っています。
それを読んだ川端は自身が幹部を務める雑誌「人間」の編集長に原稿を見せて、話をつけて掲載されます。これを皮切りに三島は戦後文壇への足がかりとするのです。三島にとって川端は恩人なのです。
そして、1947年(昭和22年)に東京帝国大学法学部法律学科を卒業、高等文官試験に合格し、大蔵省(現在の財務省)に入ります。ただし、1年でやめてしまっています。役所勤務と執筆活動の二重生活で疲労困憊となっていて、雨の日の朝出勤中、滑って渋谷駅のホームに転落してしまったことがあったのです。
それを知って、父も態度を軟化し作家になることを認めます。「その代り日本一の作家になるのが絶対条件だぞ」と言い放ちます。
1949年(昭和24年)に「仮面の告白」を発表。三島由紀夫の自伝的作品で、主人公の生まれた時から23歳までの青年期の性欲的生活を描いたものです。
当時としては珍しく、「同性愛」がテーマに盛り込まれたことも大きな話題を呼び、この作品で一躍脚光を浴び、著名作家のひとりとなりました。その後も「潮騒」や「金閣寺」などの作品をどんどん発表していきます。
1955年(昭和30年)、三島が30歳の頃から筋トレを始めるようになります。三島はとにかく幼少期の虚弱体質がコンプレックスだったこともあってか、それを克服しようとストイックに鍛錬に励むのです。こういうところが太宰との違いだったりします。
1957年(昭和32年)、知人の紹介で知り合った杉山瑤子と結婚をします。この結婚でも媒酌人となったのが川端康成で、いかにして川端のことを尊敬していたかが垣間見れます。
ここからはポイントをまとめてお伝えしていこうと思います。三島は小説だけでなく、本当に多岐な活動をされています。
●自衛隊体験入隊(1967年)
三島が42歳の時に自衛隊に体験入隊します。この体験を元に三島自身も民兵組織(楯の会)を作っていくになります。三島は日本の自衛隊のあり方を変えていきたいと考えたが、でも今の憲法では自衛隊は国軍として動きができない、そのために三島は「憲法改正」を訴えていきます。
●VS東大全共闘(1969年)
東大全共闘とは何か?の話はまた別の機会にして、この時期の学生運動の中心になっていた東大に三島が単身乗り込んでいったもので「伝説の討論」とも言われています。
このようなことを言って会場を去ります。
●三島事件(1970年11月25日)
これは日本社会に大きな影響を与えた事件です。
三島は楯の会のメンバー4人とともに、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を訪れ、面談中に突如、益田兼利総監を人質にして籠城すると、バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起を促す演説をした直後に割腹自殺した事件です。この事件だけで1つの投稿ができるくらいで、語るだけで非常に長くなってしまいます。機会を作って改めて書くかもしれません。
これについての評価は分かれます。今回の投稿では是非を考察するとかではなく、ただ事実を伝えることにします。
○2人の共通点と相違点
太宰と三島。この2人は全く違った人生を送ったにしても、共通することが多くあります。その中でも最も影響を与えているのは「幼少期の教育・家庭環境」ではないでしょうか。
両者ともに「両親(特に母親)」からの無償の愛というものをしっかりと享受されていないというところです。太宰は両親より使用人、三島は祖母に育てられてきたといっても過言ではありません。これが良いか悪いかという話したいわけではなくて、両親からの無償の愛をしっかりと受けることができないと考えが極端になりやすいのではないかと考えます。
「〜すべき」「〜しないといけない」というような一種の強迫性、使命感に近いものを感じているか、それが達成できないと落ち込む、コンプレックスを感じる、メンタル的に乱れることが多い気がします。
これを補う、補完するために「何か」を求めるのも両者に共通するところではないでしょうか。太宰の場合は過剰な愛だったり道化を演じることで、自らの虚無感を埋めていった気がします。三島の場合はストイックに規律を重んじ自分を高めていく行動力がありました。でもこの2人は根本的には「似ている何か」があると僕は思ってしまいます。
ここで冒頭に戻るのですが、太宰と三島は生涯1度だけ対面であった事があります。その時に三島が太宰に対して発した言葉が【僕は太宰さんの文学はきらいなんです】というものだと言われています。
三島がなぜ太宰を嫌ったのか、これは本人が語っています。
・作品中での自己戯画化
「恥が多い人生を送ってきました」
太宰の作品である「人間失格」の第一の手記はここから始めるのですが、このように自分をダメなところを芸術に昇華させるようなところ、道化を演じそれをも美とさせるような描き方をしている気がしますが、それを三島は好きじゃないと言っています。
三島の自伝的作品「仮面の告白」では自らの過去を曝け出し、それを乗り越えていくがゆえに筋トレに励み肉体改造をしていく、克服していくような人生を送っており、そもそも生き方、考え方、価値観が違うように思えます。弱さを言い訳にしない、昇華させていないんです。弱さをそのままにして道化を演じ、違う形で埋め合わせをしようとしている太宰を認めたくない想いがあるのではないでしょうか。「なぜ弱さを放置するの?」みたいな感じでしょうか。
・異常な毛嫌い
三島は太宰に対してこのようなことを述べています。
ただの悪口です、もはや。ここまで執着すると、何か「自分と似ているものを感じる」アンビバレンスのようなものが働いているのはないかと考えます。
話を戻します。
三島が太宰に対して「嫌い」と言った後に、太宰が三島に対して
このようなことを話したと言われているのですが、この言葉、咄嗟に出たとしても深すぎると思いませんか?
太宰も三島に対して、何か同じようなことを感じずにはいられなかった気がします。お互いのプライドというか…何かこの4文字では表現できない何かがその場で働いている気がしてなりません。
当時の太宰は人気絶頂で、三島からすれば同じ大学の先輩、小説家として先に地位を築いた人、そんな人に対して面と向かって「嫌い」と言えるメンタルってすごいと思いませんか?自分の中に強烈な何か(僕はそれをうまく言葉にできない、語彙力が残念すぎる)があるとしか思えません。
それに対する太宰もそんなことを言われての切り返しが咄嗟だったにも関わらず深すぎるのです。僕から言わせれば両者ともに天性の何かを持っていると言わざるを得ません。頭の回転が常人ではないのです。
全く違う人生、価値観を持って生きたのに、僕はなぜにこの2人を重ねて見てしまうのだろうか…根本的に「重なり合う」ものが濃すぎるからだと思っています。
生きている時代が違ったというだけで、ここまで魅力的な人がいたということを知らずにいるのは勿体無い、僕の投稿に出会った縁を感じて頂けるのであれば、少しでもこの2人の作品を読んでみてほしい。言葉ってすごい力を持っているんだ、人をここまで動かすのかと思ってしまいます。
そして、幼少期の教育、家庭環境が人に大きな影響を与えるということもあ改めて思わさざるを得ません。「悩み」というもの「うまくいかない」というもの「どうしたらいいのだろうか?」というのも、表面的な改善では真の改善・解決には至らない、紐解いていくとその原因・きっかけはどのような【教育】を受けてきたかに行き着きます。
人と対峙する時は、表面的なものを見るのではなく、その人がどのような生き方をしてきて、何を大事にしているのか、何に価値観を持っているのかを丁寧に丁寧に触れていく必要があるのです。僕の投稿を読んで「人の言葉に力がある」という意味を噛み締めて頂けると幸いです。
長くなりましたが、今回はこれまで。
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