"あるべき姿”ではなく、"ありたい姿"を考えたい

最近社内で、"あるべき姿”という文言をよく見かけるのですが、ものすごく気に掛かります。検索すれば同じようなことを書いている方はたくさんいるのですが、自分の考えを書き残しておきます。

"あるべき姿”という、べき論はかなり凝り固まった思考の枠組みになってしまうように感じています。
べき論を語る際、短い時間軸でミクロな話をするのであればそこまで違和感はないのですが、
数年先レベルの未来の話をするときに、べき論を使われると、それって本当に"べき"なの?と気になってしまいます。

自分の感覚としては、べき論を使う際には、その周りに客観的に考える常識をもとに考えるという前提があると思っています。
その前提をすり合わせずに、べき論を使ってしまうと、ものすごく違和感を感じます。

では、どういうときに"あるべき姿"というべき論は使うのが良いでしょうか?
自分の中での"べき"は、マイナスな状態をゼロに戻すという感覚で使うのが良いように思います。
例えば、「法令違反をしているから何か対策をすべき」という時のべき論は、それはそうだよねという感覚があります。違法はまずいので。
一方で、「業務効率化のためにシステム導入すべき」という時のべき論は、本当に業務効率化が必要なんだっけ?業務効率化して浮いた時間は何に使うの?むしろその処遇が課題になりうるから多少非効率でも今のままがいいんじゃない?という話も全然あり得ると思います。そう考える前提が必要です。

なので、私は基本的には"ありたい姿”という言葉を使いたいです。
自分がどういう未来を描きたいのか。そこに意志を込めたいし、覚悟も機微も込めたい。自分の価値は客観的な目線ではなく、自分から何が出せるのかだと思うので。
客観的にどうこうという話は、まぁそれはそれで必要だとは思いますが、この時代にそれを考える場合は、いずれにしてもどう"ありたい"のかがベースになり、その前提をもって、考えを擦り合わせていくことが大事ではないでしょうか。

とはいえ、以下の記事に書いてあることは納得できました。
他人を巻き込み、確実に達成責任を果たすためには、強烈な覚悟や決意、意志、使命感とも思える力で突き動かされるものでなければならない。
その意味を込めて、"あるべき姿"という言葉を使うのであれば、そこに疑問は全くありません。

いずれにしても、どれだけの意思と思考を込めて、言葉を使うのか、が大事なのでしょう。
そして、それだけ言葉を大切に扱っていれば、仮に十分に説明することができなかったとしても、ひとつ一つの機微として漏れ出して、周りに伝わるものなのではないかなと思います。
し、私はそれを受け取れる人で"ありたい"と思います。


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