【~連載~静岡の歴史を学ぼう262】Anzai area Part2 安西 パート2
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安西の地名は江戸時代以前の歴史書に見られました。今川氏の時代には武士たちの居住地でした。今日は江戸時代の安西についてお話しいたします。
安西は安倍川と切っても切れない関係のある場所です。
徳川家康公は江戸と同様に最先端の土木工事をすることで川の流れを変え、街を作りだしました。
Anzai area Part2
安西 パート2
At the beginning of the Edo period, Tokugawa Ieyasu constructed a large-scale river bank called ’Sumpu Okakoi Tsutsumi’.
江戸時代の初期、徳川家康は「駿府御囲堤」と呼ばれる大規模な堤防を築きました。
With this construction, the current of the Abe River was redirected to a more western part of Sumpu.
この建設により、安倍川の流れはさらに駿府の西側に移動しました。
However, this area was often affected by flooding.
しかし、この地区はしばしば洪水に見舞われました。
Only the severe cases of flooding during the Edo period are in the years 1604, 1607, 1693, 1707, 1745, 1774, 1828 and 1829, which are written in historical documents.
江戸時代の深刻な洪水だけでも、1604年、1607年、1693年、1707年、1745年、1774年 1828年、1829年、これらが歴史書に記されています。
The fifth district of Anzai area was also called ‘Ushi-machi’, which literally means a district for oxen.
安西5丁目は「牛町」とも呼ばれていました。これは文字通り、「牛の地区」です。
The reason was that the ox cart operators were moved from Kuruma-machi to Anzai since around Kan-ei era (1624-1644).
その理由は牛車を扱う人々が安西に寛永年間の頃から車町より移転させられたからでした。
They dominantly took a role in the transportation of Sumpu.
彼らは駿府の運送を一手に担っていました。
(参考文献)「徳川家康と駿府城下町」黒澤 脩著 静岡谷島屋
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