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【~連載~静岡の歴史を学ぼう262】Anzai area Part2 安西 パート2

※ この記事は「静岡移住計画Facebook」に掲載しております。

安西の地名は江戸時代以前の歴史書に見られました。今川氏の時代には武士たちの居住地でした。今日は江戸時代の安西についてお話しいたします。
安西は安倍川と切っても切れない関係のある場所です。
徳川家康公は江戸と同様に最先端の土木工事をすることで川の流れを変え、街を作りだしました。

Anzai area Part2

安西 パート2

At the beginning of the Edo period, Tokugawa Ieyasu constructed a large-scale river bank called ’Sumpu Okakoi Tsutsumi’.

江戸時代の初期、徳川家康は「駿府御囲堤」と呼ばれる大規模な堤防を築きました。

現在の「駿府御囲堤」
通称:薩摩土手    静岡市葵区井宮
※ この写真は向かいの井宮神社から撮影しました。

With this construction, the current of the Abe River was redirected to a more western part of Sumpu.

この建設により、安倍川の流れはさらに駿府の西側に移動しました。

However, this area was often affected by flooding.

しかし、この地区はしばしば洪水に見舞われました。


安西の町名碑 安西1丁目にて


Only the severe cases of flooding during the Edo period are in the years 1604, 1607, 1693, 1707, 1745, 1774, 1828 and 1829, which are written in historical documents.

江戸時代の深刻な洪水だけでも、1604年、1607年、1693年、1707年、1745年、1774年 1828年、1829年、これらが歴史書に記されています。

The fifth district of Anzai area was also called ‘Ushi-machi’, which literally means a district for oxen.

安西5丁目は「牛町」とも呼ばれていました。これは文字通り、「牛の地区」です。

「東海道名所風景 東海道 高縄牛ご屋」
国立国会デジタルコレクション 錦絵で楽しむ江戸の名所より   
江戸の高輪牛町の様子が描かれています。
※安西の牛町は東海道沿いではないのでこのような行列はないかと思いますが、
牛と人々が暮らす様子が分かります。

The reason was that the ox cart operators were moved from Kuruma-machi to Anzai since around Kan-ei era (1624-1644).

その理由は牛車を扱う人々が安西に寛永年間の頃から車町より移転させられたからでした。



車町の町名碑
車町は駿府城公園から近い場所にあります

They dominantly took a role in the transportation of Sumpu.

彼らは駿府の運送を一手に担っていました。

(参考文献)「徳川家康と駿府城下町」黒澤 脩著 静岡谷島屋




地図 中央部が安西地区です。
西側に安倍川、東側に駿府城の位置関係が分かります。
「国土地理院地図」より



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