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【~連載~静岡の歴史を学ぼう287】 The Governors of Sumpu Castle  Part1駿府城の城主 パート1


※ この記事は「静岡移住計画Facebook」に掲載しております。

駿府城と言えば、家康公を思い浮かべる方が多いかと思います。

家康公は駿府城の初代城主です。それでは家康公亡き後の駿府城はどなたが城主になったのでしょうか。

The Governors of Sumpu Castle  Part1

駿府城の城主 パート1

Tokugawa Ieyasu was the first governor of Sumpu Castle in the Edo period.

徳川家康は江戸時代、駿府城の初代城主となりました。


徳川家康公像 駿府城公園

After his passing in 1616, the governorship was passed down to his 10th son, Tokugawa Yorinobu.

1616年に家康公がお亡くなりになった後、城主の座は10番目の息子、徳川頼宜(よりのぶ)に引き継がれました。


南龍公神影図(部分)(徳川頼宜)


Yorinobu's mother, Oman-no-kata, was a concubine.

頼宜の母、お万の方は側室でした。

It was said that she was very beautiful and wise.

とても美しく聡明な女性であったと言われています。


お万の方供養塔
静岡市葵区沓谷 蓮永寺

Yorinobu was raised in Sumpu Castle close to his father.

頼宜は駿府城で父、家康公のそばで育ちました。

Yorinobu was probaby loved by Ieyasu and was educated to become a powerful leader.

頼宜はおそらく家康公に愛され、有力な指導者になるべく教育を受けました。

However, the second shogun, Tokugawa Hidetada, was not happy with this arrangement.

しかし二代将軍、徳川秀忠はこの取り決め(城主が頼宜に引き継がれたこと)に満足していませんでした。

徳川秀忠公肖像



Sumpu castle was a symbol of power, so Hidetada wanted his son (Tokugawa Tadanaga) to be its governor instead of Yorinobu.

駿府城は権力の象徴でしたので、秀忠は頼宜(よりのぶ)ではなく、息子(徳川忠(ただ)長(なが))に城主になってほしかったのです。

To achieve this, Hidetada sent Yorinobu to Wakayama Castle to become the first daimyo in Kishu.

これを実行するために、秀忠は頼宜を紀州の初代大名にすべく、和歌山城に送ったのでした。

Tokugawa Tadanaga was the third son of the second shogun, Tokugawa Hidetada.

徳川忠長は二代将軍、徳川秀忠の三男でした。

徳川忠長


As an infant, he was reputed as very beautiful and wise and was expected to be the third shogun.

子どものころ、彼はきれいで賢いと評判だったため、次の将軍になるのだと期待されていました。

In the end, his eldest brother, Tokugawa Iemitsu became the third shogun.

結局、長男である兄の徳川家光が三代将軍になりました。

Tadanaga resented his destiny thoughout his life.

忠長は自分の運命を生涯腹立たしく思っていました。

Hidetada made him the governor of Sumpu Castle in 1624.

秀忠は1624年に息子の忠長を駿府城の城主にしました。


駿府城 提供:静岡市

参考資料:「『御三家』紀州藩と徳川頼宜 」
     和歌山教育センター学びの丘

「大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ」
制作統括 元大御所四百年祭推進室 専門員 黒澤 脩

 

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