【~連載~静岡の歴史を学ぼう292】 The Man Who Gave Shizuoka Its Name静岡の名付け親(静岡と名前を付けた人物)
※この記事は「静岡移住計画Facebook」に掲載しております。
前回はまち歩きとして、静岡市役所葵区役所の南側入り口をご案内しました。高低差から江戸時代の武家地と町人地の境目が見て分かる場所です。
今回は葵区役所の建物のすぐ隣、静岡市議会の議場がある静岡庁舎本館わきにある石碑まで足を運んでみてください。「静岡」という地名の由来を知ることができます。
The Man Who Gave Shizuoka Its Name
静岡の名付け親(静岡と名前を付けた人物)
Shizuoka was called 'Sumpu' or 'Fuchu' from the medieval time until the Meiji Restoration period.
静岡は中世以来明治維新まで「駿府」もしくは「府中」と呼ばれていました。
It got its present name in 1869 (the 2nd year of the Meiji Period) to keep up with the modern time.
現在の名前が付いたのは1869年(明治2年)で近代の世に合わせたためです。
The name 'Shizuoka' was suggested by Mukoyama Koson, the head of a clan school of the Sumpu Domain.
静岡というその名前は駿府藩の藩校の頭取で向山黄村が提案しました。
He thought the name was suitable to the time and the land's characteristics.
その名前は時世と土地柄に合っていると彼は考えました。
'Shizuoka' literally means 'a silent or peaceful hill'.
静岡は文字通り「静かもしくは平和な丘」という意味です。
The city was officially renamed 'Shizuoka' on June 20, 1869.
1869年6月20日、正式に静岡という名前に改名されました。
The history of Shizuoka's name is inscribed on a stone monument erected by the Shizuoka City Hall where the Sumpu Magistrate Office (Bugyosho) used to stand.
その静岡の名前の歴史は石碑に刻まれており、それはかつて駿府奉行所があった静岡市市役所の脇に建っています。
Mukoyama Koson was a former vassal of the Edo feudal government.
向山黄村は江戸幕府の旧幕臣でした。
In 1867, he accompanied Tokugawa Akitake, the shogun's brother, to Paris where the latter attended the Paris Expo of 1867 as an official delegate.
1867年、向山黄村はパリ万博の代表団の一員として将軍の弟である徳川昭武に随行し、パリに行きました。
Mukoyama Koson came home in February 1868 and found that the Edo feudal government had collapsed.
向山黄村は1868年2月に帰国し、その際、江戸幕府が崩壊したことを分かりました。
He went to Shizuoka to serve Tokugawa Iesato, the new head of the Tokugawa family.
彼は静岡に行き、新しい徳川家の家長である徳川家達に仕えました。
He became the head of the clan school of the Sumpu Domain (later Shizuoka Domain) and contributed to the education of young students here.
向山黄村は後の静岡藩学校になる駿府藩の藩校の学問所頭となり、若き学生たちの教育に貢献しました。
参考資料:「静岡の由来」碑について 静岡市ホームページ
https://www.city.shizuoka.lg.jp/701_000041.html
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