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【~連載~静岡の歴史を学ぼう307】 家康公はシティデザイナー その5  あの「吉原」はもともと駿府にあった!

※ この記事は「静岡移住計画Facebook」に掲載しております。


今年のNHK大河ドラマは「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」

舞台は江戸、吉原。

その幕府公認の遊郭、吉原の起源は駿府にあったことをご存じでしょうか?

 1605年に駿府城、駿府のまちの拡大工事が始まりました。この時代の大規模国家工事を「天下普請(てんかぶしん)」と言います。その際に日本各地からたくさんの働き手が駿府にやって来ました。

 そうなると、当然需要が生まれ、遊女を置く店が増えました。そして遊女が原因での争いごとも増え、駿府における大きな社会問題となっていったのです。

 その状況があまりにもひどくなったので、家康公は1608年5月にすべての遊女を駿府から追放したのです。その後、8月25日にその昔、耶蘇寺(キリスト教の教会)があって、空き地になっていたところを仕切って与えました。それが旧・安倍川町(阿倍川町とも書きます)。現在、静岡県地震防災センターがある辺りです。

静岡県地震防災センター

 長く家康の鷹匠を勤めていた伊部勘右衛門が高齢のため辞職を願い出たため、土地を与え支配させました。勘右衛門は故郷の伏見の遊女も移して、みずから伏見屋として営業したと伝えられています。駿府には江戸より先に家康公公認の遊郭が出来たわけです。


歌川広重「府中 二丁町」
シカゴ美術館所蔵



 家康公が1616年にお亡くなりになった後、遊郭の一部が江戸に移りました。これが幕府公認の遊郭、吉原の起源です。

 安倍川町は二丁町とも言われました。これには諸説あります。二丁(109メートル×2)四方あったからと言う説。

もう一つは家康公がお亡くなりになった後、駿府から江戸に多くの人が移り、初め五丁あった遊郭が江戸に三丁移り、二丁残ったから二丁町となったという説。

また江戸へ五丁移り、二丁残ったから二丁町となったとも言われています。

ウィキペディアの「吉原遊郭」にも「元々は大御所徳川家康終焉の地である駿府城下町(現在の静岡市葵区)にあった二丁町遊廓から一部が移されたのが始まりである。」とあります。

 NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」では主人公の蔦屋重三郎は吉原の引手茶屋(客に女郎を紹介する店)の養子となりますが、この引手茶屋の名前はなんと「駿河屋」。

何か意味があると思えませんか?

NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」にも後に出てくる登場人物
十返舎一九は駿府出身 
その代表作である「東海道中膝栗毛」の登場人物 「弥次喜多像」
駿府城 巽櫓前にて

(参考文献)「駿府の城下町」 静岡新聞社  若尾俊平、中村羊一郎、小和田美智子、黒澤脩、織田元泰、小沢誠一 著

上記内より、「駿府城下の女たち」小和田美智子著 「四、二丁目の遊女」



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谷 佳世子
ありがとうございます。更なる研究に使わせて頂きます。