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【~連載~静岡の歴史を学ぼう150】Oga-machi  大鋸町

※ この記事は「静岡移住計画Facebook」に掲載しております。

「徳川家康公が大御所として駿府に入り、慶長十四年(1609)に行った『駿府の町割り』と呼ばれる城下町整備で生まれたのが『駿府九十六ヶ町』です。九十六は町の数を表しています」SHIZUOKA文化CLUB発行 「駿府九十六ヶ町 歴史ある町に暮らす私たち」より

職業ごとに決められた町内の中がある中、木挽き(こびき)と呼ばれる木材加工業者の町内だったのが大鋸町です。

Oga-machi

大鋸町

Oga-machi district is a quiet residential area today.

大鋸町は今日、静かな住宅地です。

静岡市葵区大鋸町

It takes about 20 minutes on foot to go here from Sumpu Castle Park.

駿府城公園から20分ほど歩くとここに着きます。

Meanwhile at the beginning of the Edo period, wood processors came to live in this district due to urban planning under Tokugawa Ieyasu.

一方、江戸時代の始めには、木材加工の人々が徳川家康の都市計画の下、この地区に住むようになりました。

‘Oga’ means ‘large saw’ in Japanese.

「おおが」とは日本語で大型ののこぎりを意味します。

葛飾北斎 「富岳三十六景 遠江山中」より

Oga artisans used to process wood and make wooden boards.

大鋸職人(木(こ)挽(びき)き職人)は木を加工し、板を作っていました。

葛飾北斎 「富岳三十六景 遠江山中」

In fact, the district next to Oga-machi is called ‘Daiku-cho’, which means ‘carpenters’ district’.

実際、大鋸町の隣の町内は「大工町」と呼ばれ、「大工の地区」を意味します。

Timbers as raw materials were carried on ox carts from the 4th district of Anzai, which was located along the Abe River.

原料としての木材は安倍川沿いにあった安西4丁目から牛車に載せて運ばれました。

牛車 「歌川広重 東海道五十三次 大津 走井茶屋」より

During this period, loggers utilized the Abe River to deliver logs to the city of Sumpu.

この時代、木こりたちが安倍川の流れを利用して、駿府の街に木材を届けました。

They used to build rafts using the gathered timbers and let these flow along the river.

彼らは木材を集めて筏を作り、川に流しました。

川合玉堂「春峻」より 筏流し

In the Edo period, this district used to be a site of processing timbers.

江戸時代、この町内は木材加工地でした。

The processed materials were used to support wooden industry in Sumpu.

その加工された材料が駿府の木工産業を支えていました。

In the Edo period, this district was also called ‘Nishi-Tera-machi’, which literally means ‘Western temples’ district.

江戸時代、この町内は「西寺町」とも呼ばれていました。文字通り西の寺町の意味です。

参考資料:「徳川家康と駿府城下町」黒澤 脩 著  静岡谷島屋

駿府町名碑 「西寺町大鋸町」
秋川木材協同組合のホームページより
東京都の秋川木材協同組合で今なお、
木挽き職人による製材を行い、
伝統を継承されています。
静岡市葵区大鋸町にある歴史あるお寺 玄忠寺

静岡市葵区大鋸町にある歴史あるお寺 西福寺


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